実況見分結果の考察
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事件概要
近況告知板
THE WORLD 21
墓所から読取れる事実
墓所配置及び墓碑銘記載図
墓石の配置と刻印を示したものが上図(一部仮名)。
この図左上『中田家之墓』と下一番右の男女2名の戒名を記した墓石は、石の黒ずみ方などから見て古い物、特に後者は地膚の色合いの他、名前の上に家紋と思われる刻印が為されている事(亀井トム『狭山事件 権力犯罪の構造』に事件当時の墓所の写真が掲載されており、その墓石には同じ紋が見られる)から、この墓所では最古の墓石と思われる。他は材質的に新しく(特に供養塔と有縁)比較的近年に建立されたものと見られる。
各々墓石の側面に図示の如く逝去者の刻印があった。左上の墓石には計7名の記載があり、このうち各2歳と3歳で無くなった夭折者は他の人々と別に墓石の左側面記載。
図上の墓石
図下の墓石
戒名には「妙」の字が多く用いられている事から、宗派は日蓮宗系と見られる。
この墓所は、平成2年先代栄作氏が逝去された後、平成7年に建替えられたものと思われる。その根拠は上配置図左上の墓石の建立者が栄作氏で、そこに栄作氏自身も逝去後記載されているが、当代健治氏が建立した上中央の供養塔と右上の塔は裏書によれば平成7年建立でありこの年は、被害者の逝去後三十三回忌に当る。
即ち先代当主は古い左上墓石に逝去後合祀されたが、その後被害者の三十三回忌を以て、新たに石塔2基を建立して被害者を含む先祖の菩提を弔ったと思われる。
図下の墓石を良く観察すると、被害者と次姉の墓石は各々独立した礎石の上に、隣の正治様と戒名2人(家紋入り)の2石は2つ同じ礎石の上に建立されている。上右写真を参照。こうなっている理由は良く解らない。単に建立した時の都合であって、特段の意味は無いのかも知れない。
善枝地蔵尊との関連
余談となるがこの近隣には小さな地蔵が多く見受けられる。農家の畑地や道端に度々見掛けた。被害者家の隣の敷地内にも見受けられた。推測するに、この地方では水子供養であるとか、氏神信仰、五穀豊穣を祈願しての地蔵建立が慣習化しているのかも知れ
ない(専門家によればその様な慣習があると言う事である)。
そのように考えれば、不慮の死を遂げた娘の供養に、自宅前に通常見られるものよりは少々大き目な地蔵を建立すると言う行為自体は、一般に考える程奇異な事では無かったのかも知れない。地蔵の大きさ自体、遺族の思いの大きさを示すものであった様にも思われた。そして地蔵自体は、被害者宅と姓を同じくする人が、事件後寄付をした物であった。これは地蔵建立の経緯である。
既に掲載の
1−531氏提供の写真
によって、善枝地蔵は1993年即ち平成5年8月迄は存在した。恐らく平成7年の三十三回忌を以て、墓所も新たに秀麗なものを築いて供養をした事でもあり、この機会に旧き時代の地蔵は撤去されたのではないか、とは新井 泉氏の推測である。これが地蔵撤去の経緯についての考察である。
また従来、地蔵が建て替えられたのではないかとの推測があったが、その後の調査の進展に伴い、建て替えは無く、当初建立されたままに年月が経過しその後撤去されたと言う可能性の方が高くなった。詳細は→
こちら=基礎事実の検討→善枝地蔵に就いて
略系図(推定)
墓碑銘の記載を基に作成したものが上の略系図。年数の記述は便宜上西暦とした。
死没者の生年は没年から年齢を単純に減じた推定。実際は、生誕日によって違って来ると思われる。単純に計算すると、次姉と三女とが同年生れとなって来る。このあたり1年違いと思われるが、双子であった可能性も勿論ある(図では1年違いと解釈して表記)。
また、墓石に記載されていない血縁者も存在すると見て良い(分家、養子などの理由による)。現に分家した後逝去した次兄の名は墓石には刻まれていない。よって、系図には現れない血縁者も当然いたものと思われる。
被害者の墓石
被害者の命日は遺族の認識では5月1日である事が読取れる。
正治氏の墓石・墓碑銘
正治氏の墓石には『昭和十九年十月十二日台湾安平港沖にて戦死す 行年三十一才』とある。この記載の安平港は台湾・台南市にある国際港でその歴史は17世紀に遡る。
この記載が事実であるとすれば、正治氏の人物像について多くの示唆を与える。
台湾と言う場所と昭和19年10月12日の日付は、正治氏が当時どのような人物でどのような戦死状況であったのかを示している。
それは大本営が戦果を虚偽に近い拡大発表したものとして有名な『
台湾沖航空戦
』で戦死した、と言う事である。年月日と台湾安平港沖との記述は、正治氏がこの戦闘で散華された事を示しているのはほぼ確実であると思われる。
この戦闘に於ては既に戦争末期、熟練した操縦者が払底していた陸海軍で、訓練不足のパイロットと残存する航空戦力を掻集めての作戦が取られた。しかし如何に訓練不足とは言え、正治氏は航空兵であった事になる。なお、この戦闘に参加した部隊は陸海混成であったが、正治氏が陸海軍どちらに軍籍があったかは不明。
*作戦自体は海軍が行った。
また、この航空戦で戦死をしたと言う事は、多くの戦没者同様、遺体・遺骨は無かったと言う事である。
此の頁の写真(下3枚)=Copyright (C)新井 泉
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