基礎事実の検討

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事件概要
近況告知板
THE WORLD 21
堀兼地区・その歴史と特徴
最終目撃者
  主な既出推理
  既出推理の検討
  推理
  追記
自転車と脅迫状の領置調書について
  推理
事件発覚時刻について
  推理
  有線電話について
  細田証言の信憑性について
  事件発覚時刻隠蔽の理由
  佐野屋自作自演説に就いて
被害者宅墓所は両墓制ではない
善枝地蔵について
奥富玄二=OGについて
  「奥富源治の身辺捜査」警察資料

堀兼地区・その歴史と特徴

 現地を歩いた事のある者ならば良く解る事であるが、堀兼・上
赤坂付近は狭山市内の他の地域と比較して見た場合、ある一線を
画した特徴が感ぜられる。
 それは、風景が余り昔と変わっていない、と言う事である。各
戸の母屋・家屋は建替えられ、新しくはなっていても、そこには
昔ながらの整然と区画整理された農地と、屋敷背後の林が続いて
いる。他の地域ではそうは行かない。団地が出来、宅地化され、
商店が立並び、毎年、行く度毎に風景が変わってしまっている。
 そこにはある種の、変化を拒む「閉鎖性」と言ったものすらあ
る様に感ぜられるのであった。

堀兼地区の新田開発

 整然と区画整理された堀兼地区には、農家間の格差はそれほど
存在しない。突出した大地主が幅を利かせるといった構造では無
い。農家間の格差が余り見受けられないと言う事は、むしろ地域
全体として、ある種の結束された共同体と言った印象がある。
 
 この地域は1649年、老中・松平信綱によって大掛かりに新
開拓された周囲二十三里四方の広大な地域のひとつであった。
 当時この地域は一面の原野が広がり、関東ローム層の赤土は農
作に適さず、開拓不能とされていた。
 当該地域の利用法は、周辺で農作を営む本百姓が川越藩の代官
と幕府に入会銭を支払って入り、堆肥作り用の落ち葉拾い、薪拾
いの為の土地であって、同時にその権利は、本百姓のみに許され
た特権でもあった。しかしながら同地は、それら本百姓にとって
は、苦労して開拓するほどの価値のない土地でもあった。
 
 農民身分はその中にさらに、本百姓・子前・水呑と言った位階
身分を有し、子前・水呑は田畑・屋敷を所有せず、自身の食い扶
持はもっぱら、豪農の奉公人・作男等、要するに所謂小作をする
事によって凌ぐ。
 よってこれら小作身分の者にとって、本百姓身分となる事は見
果てぬ夢であった。
 
 松平信綱はこれら小作身分の者の夢を刺激する事により、開拓
困難とされていた堀兼周辺地区の開拓人募集を行なった。
 
 この開拓に抵抗を示したのが本百姓達であった。この地域を開
拓されてしまっては、本百姓として入会地の特権を侵害される為
であった。この事が、奉公人や作男、分家の者達が新たにその土
地に入り開拓を始めた時、成上り本百姓として差別の対象とされ
る基礎を築いた。こうした差別的社会構造が、堀兼の人々に周囲
からの閉鎖性・排他性を持った共同体を形成する背景となったの
だと思われる。
 
 しかし元々「開拓不可能」とさえされていたこの地域の自然環
境は苛烈なものがあったと言う。そもそも「堀兼」と言う地名が
示す様に、これは「井戸を掘りかねる」即ち困難であると言う意
であった。またその逆に、不老川は度々氾濫を繰返し、開墾した
畑地は沼地となってしまう。
 治水が貧弱なものであった開拓当時の記録を見ても、この地域
の農作が困難を極めた事が解る。
 1654年(承応3年)  大旱魃
       同 4月   雷・雹(ひょう)害
       同11月   大雪の害、死者多数
 1655年(明暦元年)4〜6月
              旱魃
 1659年(万治2年)  長雨冷害
 1660年(万治3年)  大水害
 
 この様な困難を乗越えて、堀兼地区一帯に於いて現在見られる
様な短冊形の計画的な地割りによる新規開拓地が完成された。同
時にそこには、入間川に近く水資源の豊かな地域の本百姓→堀兼
地域の「成上り」本百姓→被差別部落と言う、重層的な差別体系
があった。
 なお、堀兼地域開拓以前の本百姓の農耕・居住地区には長栄寺
及明光寺と言う両墓制の寺院があり、即ち両墓制が行なわれてい
たのはこの地域(ほぼ西武線の西側沿線)だけであり、上記に見
た様に新開拓地であった堀兼一帯に両墓制は無かった。
参考文献
「狭山市史近世資料編1・2」狭山市役所行政資料室
「狭山市史地誌編」     狭山市役所行政資料室
部落差別と冤罪―狭山事件の背景」   高杉晋吾

最終目撃者

級友達の証言

佐野とよ子
 3時半頃「さようなら」と言って下校。「傘を持っていないか
 ら早く帰る、郵便局に寄っていかなくちゃ」と言っていた。
 
中根敏子(一審第6回公判調書)
 3時23分頃、自転車を転がして下校。いつも3:24の電車
 に乗るので時計を見た処その時刻であった。その日友達から借
 りた「女学生の友」を善枝に貸した。この日自分は3:40に
 下校して3:54の電車に乗った。
 
鎌田芳子(二審第64回公判調書)
 「今日は誕生日だから早く帰りたい」と言っていた。授業終了
 (2:35)後すぐに帰ったような気がする。
 「(学校には)売店というものは特別なかったんですけれども
 お昼にだけ小使いのおばさんがパンと牛乳を売りました」
 「女学生の友」所有者。
 

目撃証言

郵便局員
 3時20〜30分頃、郵便局で被害者を目撃。

中島いく
 3時20分頃、農作業の帰路、第1ガード下に居るのを目撃。
 5月7日供述調書、開示は十年以上後。
 
相沢健一
 3時前後、堀兼中の生徒を引率し東中での野球試合へ行く途中
 第2ガード下に居るのを目撃。声を掛けたが返事は無かった。
 被害者の堀兼中時代の担任教諭。佐野屋での張込みに同行した
 PTA会長の増田秀雄に事件直後からこの目撃談を語っていた
 が調書は取られなかった。当日の試合は東中に着いた後雨が降
 り出したので中止となったがその帰路に再び第2ガードを通っ
 た時にはもう居なかったと言う。
 
奥富孝志
 2時40分頃、東中での試合へ向かう途中、関口自転車店付近
 で自転車に乗った被害者とすれ違った。東中に到着した時には
 試合は3回の表か裏を迎えていたと言う。5月3日に級友にそ
 の目撃談を語り5日に警察に届け出た。
 
 証言通りの時系列であると、被害者は学校から遠い方から近い
方へ向かって移動した事になってしまう。又、これらの証言は全
て時計を見ての事では無い事に注意。
 

 
現在の第1、第2ガード

当日の降雨状況

 
 2:00〜2:55=小雨
 3:26〜3:39=小雨
 4:20〜2:50=本降り
 

主な既出推理

 *野間宏
 目撃証言通りの時系列を採用。学校を出て第2ガードへ行きそ
こで相沢健一に目撃され、ここで何者かに次の予定の伝言を受け
又は予定変更を伝えられて一旦学校へ戻り、3時23分下校して
第1ガードへ向かった。奥富孝志証言は不検討且つ不採用。
 
 *亀井トム
 野間宏とほぼ同様の見解。
 
 *甲斐仁志
 当日の降雨記録と目撃証言に於ける雨に就いての記述に注目。
 当日の記録と証言をつき合わせた結果、3時23分に下校して
第1ガードに向かい、そこから更に関口自転車店付近を通る際、
奥富孝志とすれ違った。奥富証言の2:40頃は降雨状況から間
違いと結論付けている。同時に第1ガードで何者かと待ち合せた
後、更に加佐志方面へ向かったとしている。
 又、相沢証言は試合中止となる迄、雨に就いての記述が無い事
から目撃した日付の間違いとし、4月25日の出来事と結論。
 
 *殿岡駿星
 被害者は沢・加佐志方面で何者かと待合せをしており、その途
中第1、2ガードで雨宿りをした。
 3時23分下校後、郵便局と毛糸店に立寄った後、3:40頃
第1ガード到着、3:45頃第2ガード、その後関口自転車店に
至る。この時系列は著者が実際に現場を自転車で走って見て算出
されたものである。
 また、独自の取材により、相沢証言の東中での試合開始は4時
であったと見ている。当時の関係者のメモで開始時刻がその様に
記されていたと言う。この推測と自転車での時間算出から、第2
ガードでの時刻は上記3:45頃としている。

既出推理の検討

 *野間・亀井説
 3時23分に下校したと言う中根敏子証言と、3時頃第2ガー
ドに居たと言う相沢健一証言を共に重視し、その矛盾を解決する
推理として、被害者が一度学校を出て第2ガードに立寄った後に
戻り、その後再び下校したと言うものである。初め第2ガードで
待合せをし(3時頃)後には第1ガードで待合せをした(3時半
頃)と言う事になるが、僅か30分程度の時間に慌ただしい動き
をした(させた)と言う事になり、一旦出た学校へ戻る事の必然
性が余り感じられない。
 又、待合せをさせるのにこの様な複雑な計画を立てるかどうか
(或いは簡単に計画を変更する様な無計画性があったかどうか)
も疑問である。
 且つ、奥富孝志証言に就いては余り言及する事も無く簡単にス
ルーしてしまっているのも解せない。
 
 *甲斐説
 証言の中で雨に触れられていない部分は「雨が降っていなかっ
た」ものと解釈し、降雨記録と照らし合せる事によって、時系列
を再構成した訳であるが、この証言解釈の仕方は疑問である。
 証言の中で(正確には証言が記載されている書物・調書の中)
雨に就いて語られていないからと言って、その事が即「その時雨
が降っていなかった」事にはならないからである。
 相沢証言に就いて2:30分頃の雨の中を東中へ出発した記述
が無いからと言う理由で、簡単にこれを4月25日の出来事とし
ている。奥富証言では同じく降雨からの推測をしながら、こちら
は日付ではなく時刻の間違いとしており、降雨記録と証言の食違
いから出発しながら、推論方法に首尾一貫性が欠ける。
 又、相沢証言が日付違いだとして、では何故それが「4月25
日」の事であるのか、その根拠は示されていない。奥富証言の時
間繰下げに於いても、奥富少年が真面目に試合に行った様に体裁
を取繕ったのであろうとの、多分に邪推的な想像になっている。
 
 *殿岡説
 途中ガード下等で雨宿りをしながら、沢・加佐志方面へ移動し
たと言う説だが、現時点(本稿執筆時)での筆者(小生)の考え方に近い。通常下校後にある目的地があって移動する場合、学校から遠い方へと順を追って移動し、その際一旦学校へ戻る事は無いであろう。
 又、待合せを指示した犯人側が、これから拉致・誘拐をしよう
とする時に、被害者に不明確な指示しか与えないと言った犯人像
は現在の処考えにくい。
 *事のついでだが同様の理由で、被害者の一旦帰宅を許す様な誘拐の仕
  方はしないであろう。又、一旦帰宅したとしたらその前の時刻に、何
  故通学路を外れた第1ガードや第2ガードに居たのか、その理由に就
  いては何も語られていない。これが、「自転車は被害者が一旦帰宅し
  て家に置いて行ったもの」と言う説に賛同出来ない理由のひとつであ
  る。
 

 ネックは相沢証言の時刻だが、当日の試合状況に就いてはその
時刻・試合数等が当時からはっきりせず不明で、東中での試合開
始時刻が相沢証言通りの3時半では無く、殿岡氏が取材によって
得た4時であった可能性もある。
 奥富証言に就いても、試合開始が4時だとすれば、到着時に3
回を回っていたのであるから、関口自転車店付近を通ったのは3
時55分〜4時頃の事としており、その真偽の程は試合開始時刻
に掛かって来る。
現在の関口自転車店

推 理

 *級友証言について
 中根敏子証言は3時24分発の電車に乗ろうとして時計を見た
処既に3時23分であったと言う事で具体性があり、ほぼ信頼出
来る内容と見て良い。佐野とよ子証言の3時半頃も、誤差を見込
めば中根証言に呼応した内容である。
 他方、鎌田芳子証言の「授業が終わってすぐ」に就いては「だ
ったような気がします」と言う事であり、事件から9年を経過し
た段階での証言でもあり、前二者と比較すれば確実性に乏しいと
判断して良いだろう。
 *ちなみに、お昼に牛乳を売りに来たと言う証言から、鞄と共に発見さ
  れた牛乳瓶の出処は被害者の持ち物であったと思われる。
 

 *目撃証言について
 中島いく証言=第1ガードでの目撃時刻は時計を見ての事では
ないから、郵便局と毛糸店への立寄りを見込めばこれは3:40
頃と見ても妥当であろう。
 
 相沢健一証言=甲斐説では日付の間違いとされているが、相沢
健一は事件当初から第2ガードでの目撃談を増田氏など周囲に漏らしており、「二審の最終段階になってからの証言であるから長年の間に記憶が入れ替わっていた」と断定する事は出来ない。
 恐らくは先に3:23に下校したと言う中根証言を取っていた
為に、時刻の矛盾する相沢証言は調書にも取られず、不採用とさ
れていたものでろう。
 日付の間違いで無いのなら時刻の方が間違っていると見るべき
で、そうであれば殿岡氏の取材事実の様に、試合開始が午後4時
であったと見るのが妥当と思われる。
 従って被害者が第2ガードに居たのは3:50頃の事と見て良
いであろう。
 
 奥富孝志証言=2:40頃関口自転車店と言う時刻は、降雨よ
り何より、当日授業終了が2:35であった事から、時間的に無
理である。そうなると、これも殿岡氏の推理の様に、相沢健一と
同じく野球試合関連で動いていた奥富少年の供述は、4時から始
まる試合に関連付けられる。東中到着時に試合が3回を回ってい
たのであるから、そこから逆算すれば4:00前後、関口自転車
店付近で自転車に乗った被害者とすれ違ったと見て良かろう。
 
 最後に降雨との関係を見ておきたい。
 当日2:00〜2:55迄が小雨、3:26〜3:39迄の短
い間が再び小雨、本降りが4:20。相沢証言によれば東中には
3時過ぎに到着し、暫くして雨が降り試合が中止となり、3時半
頃再び第2ガードを通った事になっている。そうなると、東中を
出た頃に雨が降り出した事になってしまう。
 この事から、相沢証言の日付が5月1日の事であるのなら、や
はり東中に到着したのは4時過ぎで、その後4:20からの本降
りにあって試合が中止となったと見た方が良さそうである。
 
 推理の結論として。
 3:23 下校
      郵便局と毛糸店に立寄る
 3:40 第1ガード
 3:50 第2ガード
 4:00 関口自転車店
 そこから、被害者は犯人指定の場所へ向かった。

*異説。
 2:35 授業終了後間もなく下校
 2:45 第2ガード
 2:55 関口自転車店
 3:00 学校へ戻る
 3:23 再度下校、郵便局と毛糸店に立寄る
 3:40 第1ガード
この異説については下記追記参照
 
 なお、相沢証言と奥富証言の両方若しくはどちらか一方が、や
はり日付の間違いであったと言う可能性も全く無くは無い。その
場合は上記第2ガードから先の目撃証言を抹消し、被害者は第1
ガード或いはその付近で犯人側と落合った事になる。
 第1ガードでの目撃証言に就いては、その信憑性を問う声もあ
ったのだが、5月7日と言う早い段階で調書が取られたにも関わ
らず、その後十年近くもこれを開示しなかった処を見ると、この
証言が真相に迫るものであり従って警察・検察の描く石川有罪ス
トーリーに反するものであった事が解る。従ってここでは、本証
言は信頼性の有るものとして採用したものである。
 
 *追記*
 石川一雄氏の供述も見ておきたい。
 5月1日午後3時半若しくは4時頃、石川氏は入間川駅前の荷
小屋で雨宿りをしていたと言う。すると
 『午後4時頃、中学生と思われる男女20人位が、それぞれ自
転車に乗って私の家の方へ行くのを見たのと、午後5時頃石田豚
屋さんの車を見た時は駅に時計を見に行った時でしたのではっき
り覚えています。時刻は4時59分でした。なぜこの細かい数字
まで判ったのかと言いますと、あの時丁度4時59分発の電車が
出たからです。又私が石田さん方で仕事をしていた頃は土、日曜
日以外は、5時頃上げてきたことは一度もありませんでしたが、
この日はこの様な時間に来たので、私は今でも変に思われてなり
ません』
 (勿論これは自白では無く、自分の真実の行動を述べたもの)
 
 これによれば東中から帰路の中学生らが4時頃に駅前を通り掛
かったと言う事になるが、これは恐らく4時半頃の事では無かろ
うか。3時半頃の雨で試合が中止となって帰るのならば、中学生
達は遅くとも3時40分迄には駅前に到達する筈で、自転車で移
動する者が4時頃に駅前を通り過ぎるのでは速度的に遅過ぎる。
実際、東中(現東小)から駅前迄は自転車ならば精々2、3分の
距離である。
 4時から試合があり、4時20分に本降りとなった為に東中か
ら引き揚げて来るのであれば、4時半かその少し前と言う時刻が
時系列と速度から言って合理的である。石川氏の『4時頃』は勿
論時計を見ての事では無い。
 こう考えると石川氏の証言も上述の推理をある程度裏付けるも
のであると思う。
 
 一方、石田豚屋の車が5時頃に通ったと言う方は丁度駅の時計
を見た事から、正確な時刻と言う事が出来る。普段6時頃に通る
筈の豚屋の車が、この日に限って5時に通ったので変に思ったと
言う。過去に養豚場に勤務していた石川氏ならではの証言と言う
事も出来る。

目撃証言の再検討

 *追記(2007/12/4)
 
 被害者の目撃証言については、既に記したように目撃時刻が下
校時刻と矛盾している(目撃時刻をそのまま採用すると被害者は
学校から遠い方から学校に向かって移動したかのようになってし
まう)為、その矛盾を解決する為に、上記のようにこれまでも様
々な推理がなされている。

 この点につき、本年9月の現地見分に来られたK氏から、可成り有力な異説を送って頂いたので、遅ればせながらここに追記る
事とする。以下、基本的にK氏よりの文面を若干再構成しながら
引用させて頂いた。なおK氏は過去狭山市近隣に在住、その後相沢健一氏に面談し話を伺った事もあるとの事である。なお、緑字部分は筆者(当サイト制作者)の考察。

☆☆☆

  ー要点ー
 *相沢証言の信憑性が最も高いこと
 *従って野球試合開始予定時刻は証言通り3時半と見られる
 *他の目撃証言も上記に沿って考える

*相沢証言について

目撃証言者中、相沢健一氏の証言が、全民間人の中でも最も信頼
出来るものと考えられる。その理由としては、

1、事件発生の翌日の朝8時半には警察から事件の概要を聞かさ
れその時点で被害者目撃を「昨日のこと」として証言している。

2、元被害者の担任であり、現役教師(当時)という責任ある立
場からも、曖昧な証言やいい加減な推測などは行わないと考えら
れる。

3、1か月半前まで担任していたクラスの生徒が被害者となった
事件であり、顧問を務める野球部の試合と合わせて、その目撃状
況は強烈に印象付けられたと考えられる。

4、少年や若年者、高齢者では無く、32歳(当時)という最も
状況への観察力や記憶力の優れる年代にあっての証言である。

*奥富証言について

奥富少年の証言については、相沢証言と比べてもかなり正確さに
は欠けるものと考えられる。その理由は、

1、証言の中に、明白な矛盾(授業終了が2:35であるのに、
「2:40頃、自転車店前で善枝さんとすれ違った」等)が含ま
れている。

2、警察も初期の段階から重視していない(喋り方が曖昧であっ
たことなども想像される)

3、友人に話したのが5月3日、届け出が5日で、若干の時間が
経過している。

4、当時まだ14歳の少年の証言である。

しかし「東中の野球の試合を観に行ったが、雨で中止になった」
という記憶と「その途中で善枝さんと出会った」という記憶がセ
ットになっているのだから、5月1日に被害者と出会ったことそ
のものは事実であったとみて良いと思われる。

奥富少年は当初、被害者と出会った時間を「2時40分頃」と証
言しているが、この時刻そのものは間違いであったとしても「授
業終了後間もなく下校し、東中へ向かった」というニュアンスで
はあったのだと思う。相沢証言に従えば、3時15分頃には試合中止が発表されたことになるから、関口自転車店前を通りかかる可能性がある時間は大体2時45分〜3時5分の間。
被害者は3時過ぎには学校にいて、しばらく雑誌を読んでおり、
3時23分に下校しているから、そこから考えれば2時55分前
後とみて良いのではないか。

*東中の野球試合について

野球の試合中止の件であるが、これはやはり相沢先生が「試合自
体が行われなかった」と話しているのだから、そちらの方が正し
いのではないではないか(「奥富少年が東中に着いた時は3回の
表か裏だった」という話は、特に裏の取れた話ではない)。
また、中止になった時刻は、「東中に着いて、ノックの練習を始
めていたら中止決定を知らされた」、「部員を連れて3時半頃、
再び第2ガード下に差し掛かった」とのことであるから、「道具
を片付ける+600〜700メートルの距離を移動」の所要時間
から逆算すれば3時15分頃だったのではないかと推定される。

野球試合自体の開始予定時刻は、やはり相沢証言どおり3時半で
良いのではないか。私は教育学部出身で、学校関係の仕事にも、
10年余り従事していたが、そこでの感覚から言うと「4時試合開始」というのは明らかに遅い。
中学校は義務教育であるので、日が伸びている時期でも、課外活動は5時頃まで(少しくらいのオーバーならOKだが)に終わら
せることが原則となっている。遅い時間に帰して、生徒が事故や事件にでも遭えば、当然学校や教師は責任を追及されることになる。ましてや、当時の狭山地区など道に街灯も無く、周りは雑木林だらけであった。
私は、そんなことからも、やはり相沢証言に出てくる時間の方が
自然なもののように思える。

 *実際、降雨も3:26〜3:39の間小雨であったので、このように
 雨が降ったり止んだりしていた時点で「本日の試合は無理」と判断され
 中止と決断された可能性もおおいにある。

*犯人が待ち合わせ場所を「第2ガード」から「第1ガード」に
 変更した理由

相沢先生は「野球の試合は3時半から」で、「試合前、30分ほ
どノックをやるのが慣例になっていた」と言っているのであるか
ら、当日も2時35分の授業終了後すぐに生徒を集め、東中3時
到着を目指したとみて良い。と、なればやはり被害者と第2ガード下で出会ったのは2:45〜50頃と考えられるのではないかと思う。

 *「2時35分授業終了」は被害者の高校での終業時刻であるが、K氏
 が勤務していた頃(昭和40年代半ば)の付近の中学校の授業終了時刻
 は2時35分であった事から、事件当時の相沢先生の中学校でも同時刻
 に終業であった可能性が高いと見て良いと思われる。

犯人は直後に現れたはずであるから、相沢先生と善枝さんが話し
ている姿を遠くから目撃していたのかもしれず、そうなれば、当
然犯人は、「今の人、誰?」と聞き、善枝さんも普通に「中3の
時の担任の先生」と答えるだろう。

あるいは、犯人はこの2人の出会いを目撃していなかったとして
も善枝さんから「今、ここで待ってたら中3の時の担任の先生に
会っちゃった。これから生徒を連れて野球の試合に行くみたいだ
った」と聞かされたのかも知れない。部活の生徒を引き連れてい
るとなれば、試合が終わるか中止にでもなれば、当然同じ道を引
き返してくることになる。待ち合わせ時間を1時間後に変更しよ
うと考えていた犯人は、それを聞いて「これはマズい」と思った
のではないか。

*上記の考察を総合した目撃証言の時系列

2:35 授業終了。直後に下校「1番早く帰った」との証言

2:45 第2ガード下到着。犯人となる人物との待ち合せ時刻
     この日の朝、郵便局で切手を買ったものの領収書が貰
     えないという不測の出来事があったが、犯人に連絡を
     取る術が無いので、諦めてガード下に直行。

2:45〜50 相沢先生と出会う。直後に犯人現れ、「待ち合
     わせは3:45 第1ガード下に変更」と聞かされる
    (犯人側でも、準備が整わない又は車が到着しない、共
     犯者が現れない等、何らかの不測の事態が発生したと
     考えられる)。

2:55 元来た道を引き返すと相沢先生と再度出会ってしまう
     ため、線路の反対側の道を進む。自転車でぶらぶらす
     ることも考えるが、小雨が降り出してきたため、遠回
     りして学校へ引き返すことに。この時、関口自転車店
     前で奥富少年とすれ違う。

3:00過ぎ 学校着。雑誌を読んで時間を潰す。(少し慌しい
     感もあるが、当日は雨も降り始めており、女子高生が
     時間を潰せるような場所も他に無く、また他人にこれ
     以上人を待つ姿を見られたくなかった事や、第1ガー
     ドまで学校から5分足らずの距離であったことなども
     考えれば、格別不自然では無い)

3:23 再度下校。待ち合わせ時間が変更になったことで、立
     ち寄りたかった郵便局や毛糸店に行くことが可能に。
     その時間を考えて少し早めに学校を出る。

3:30頃 相沢先生は降雨で試合中止の為、再び生徒を引率し
     第2ガードを通る。この時被害者はもう居なかった。     一方、被害者はこの時刻頃迄に郵便局と小沢毛糸店に     立ち寄る。

3:40 第1ガード下に着。主婦に目撃される。

3:45 犯人現れ、車で連れ去られる。

4:00頃 駅前の荷小屋で雨宿りしていた石川さんが自転車に
     乗って下校する中学生の集団を目撃。K氏の説から考     えると、これは東中の生徒達であったと思われる。

*事件発生当時のガード付近について

事件発生時に近い頃の現場(第1、第2ガード辺)の雰囲気は、暗く寂しい場所と言う印象で、このガード下へ行くと言う事はどちらかと言えば「人目につかないようにしたい」と考える人間が行くような場所であった。昭和40年代に私が行った時でさえ、第2ガード下は15分立っていても通行人はゼロ、第1ガードも1人通り掛かっただけであった。この点、現在の整備され周囲も明るくなっている両ガードの雰囲気からは想像するのは難しいと思う。

この事から、被害者は目的地に移動しながら雨宿りをしたのでは無く、これらのガード下で人目を避けて待ち合わせをしていたと考えるのが妥当と思われる。

 *或いは、人目を避けつつ、降ったり止んだりしていた雨も避ける、と
 言う一石二鳥な場所としての選択と言う考え方も出来ると思う。

*補足考察

1=私の説(或いは亀井・野間説)によれば、被害者は3時過ぎに一旦学校に戻ったことになるが、もしそうだとすれば郵便局や毛糸店に立ち寄るのは、学校に再度戻る途中にした方が時間的なロスも最小限で済むはずである。

しかし、被害者は実際には「2度目の下校」後の3時半頃に郵便局に現れている(郵便局員の証言による)。と、いう事は、もしかしたら被害者は最初「3時40分位まで時間をつぶすつもり」で教室に戻ったものの、郵便局と毛糸店の件を途中で思い出してまた早目にそこを出た、ということだったのかも知れない。

「学校に一旦戻った」とする説に対しては、「15分程度の時間をつぶすために教室まで戻る、というのでは少し慌し過ぎないか」との感想を持つ人もいる事と思うが、このように考えてみるとその行動も全く不自然では無くなるように思う。

 *つまり、被害者の行動にはこのように、言わば思いつきの動きも含ま
 れていたと言う事。確かに、普段の人間の行動などは一から十まで全て
 計算ずく、と言う事の方がむしろ少ないわけであるから、このような考
 え方をしてもとりわけ不都合な推理にはならないと、筆者も考える。

2=事件当時のガード下の通行量は、私の受けた感じでは第2ガードが「30分に1人」、第1ガードが「10分に1人」といった程度だった。

しかし、事件当日は荒神様のお祭りがあったので、おそらく「第1」の方は普段の倍位(5分に1人位)の通行量はあったのではないかと想像される。

そうなると、待ち合わせ場所を「第1」に変更することは、目撃される危険性を大幅にアップさせることにも繋がってしまう事になるが、犯人(呼び出し犯)がそこまでして待ち合わせ場所を変更したのは、もしかしたら、何としても「相沢先生にだけは会いたくない、見られたくない」という事があったのかも知れない。

女子高生の誕生日に人目を忍んで会う、という位だから、おそらく『呼び出し犯』は「熱愛中の彼氏」だったのではないか。1か月前まで中学生だった少女だから、相手の年齢もせいぜい同学年から20歳位(今でも15歳位の少女が中年男と付き合う、とかいうのは余り無いが、当時にあってはまず皆無だったろう)。当時の狭山は人口も少なく、付近に中学校は3つ程しか無かった。よって、2人が学校で知り合ったと仮定すれば『呼び出し犯』は相沢先生の教え子或いはよく知っている生徒の1人だった可能性も十分あると思う。

 *つまり、一般人に目撃される事よりも、相沢氏を含む「顔見知り」に
 見られる事を最も避けた、と言う事。


K氏は過去、狭山市近隣に在住していた事、学校関係の仕事をされていた事、事件当時の雰囲気がまだ可成り残っていた頃(昭和四十年代)の現場付近を知っている事、相沢健一氏に話を伺った事、等の点から、可能性大の考察と考え、ここに追記として掲載させて頂いた次第。

K氏のこの考察は、文中にもあるように、小生(当サイト制作者)が以前は否定的であった「亀井・野間説」での「被害者一旦下校後、再度学校へ立寄り、更に再度下校」説を補強したものと言えよう。亀井、野間両氏が余り検討する事も無くスルーしてしまっていた奥富少年証言をどう見るかについても突っ込んで考察されており、また、犯人像及び犯行様態にも迫る要素も含まれており、事件当日の被害者の足取りについての有力な説明になっていると思われる。


自転車と脅迫状の領置調書について

領 置 調 書

 
   領置調書(甲)
 被疑者不詳に対する営利誘拐恐喝未遂被疑事件につき本職は
 昭和38年5月1日狭山市大字上赤坂100番地において差
 出人が任意提出した左記目録の物件を領置した。
 昭和38年5月1日
 狭山警察署司法警察員巡査部長 関口邦造 印
 押収品目録
 符号151 
 1、身分証明書 数量1 
         差出人/中田栄作 狭山市上赤坂100番地
         所有者/中田栄作 狭山市上赤坂100番地
 2、封筒入脅迫文  1         同上   
 3、セキネ号婦人車 1         同上    
       H41602                
          

問 題 点

 1=公式発表ではまだ事件発覚段階に過ぎない自転車・脅迫状
   の領置(通報)段階に於いて既に「営利誘拐恐喝『未遂』
   被疑事件」となっている。
 2=公式発表では脅迫状を堀兼駐在所に届出た事になっている
   のに、自転車・脅迫状共にそれらを領置した場所が被害者
   宅となっている。
 
 1はこの領置調書が書かれた時点即ち佐野屋以前の時点に於い
て犯人の出現と逃走があったとの推理を産む材料。この領置調書
が何日何時の時点で書かれたのか、その正確な日時は不明である
が、仮に2日未明に書かれたとすれば、その前の2日午前0時頃
に犯人出現・逃走があったとすれば調書を書くにあたり「未遂」
被疑事件と記載した事も説明出来ると言う事である。
 
 2は事件通報後、警察官が被害者宅に赴いた後に、自転車と脅
迫状を領置した事を示す。公式発表通りならば脅迫状提出時点で
はまだ自転車は警察には領置されていないのにも関わらず、両者
とも同時にしかも被害者宅で領置された事になっている。この事
から、事件の通報は堀兼駐在所で行なわれたのでは無く、電話で
通報した後被害者宅に警察官が赴いたとの推理がなされている。

推 理

 1に就いては脅迫状を家族が手にする以前に、やはり電話等に
よる第1回の脅迫があり、その時点で警察への通報がされていた
事を示す。その後恐らく長兄によって、自転車と脅迫状の回収が
あり、その事実は公式発表通り7時55分頃、堀兼駐在所に通報
された。
 共に通報された時点で警察側から見ればこの「営利誘拐恐喝」
は「未遂」と言う解釈となった為その旨の記載となった。
 
 なお、自転車と脅迫状は犯人が被害者宅に持込んだ物では無い
だろう。その根拠は、既に6時台には警察の初動捜査も始まって
おり他方被害者宅では親戚なども動員して被害者の捜索を行なっ
ていた為、被害者宅には当然、それらの親戚や捜査員が既に出入
りしており、又堀兼付近を中心に「誘拐」を前提にそれらの者達
が行き来しており、その様な状況で犯人が被害者宅に接近すれば
少なくとも何らかの不審人物の目撃情報はあった筈だがそれは無
い。

 (但し現在では下線部につき違う考え方をしている。
  次項「第2説」参照)
 
 第1回脅迫の後発表より早い時刻に自転車と脅迫状が届けられ
たと言う説も同様の理由に加え、いまだ日没前の明るい時刻での
犯人のその様な動きは考えにくく、不可。
 また、そもそも最初の脅迫時に、発表よりも早く自転車と脅迫
状が犯人により届けられた、即ちその時刻は遅くとも6時より前
との説もほぼ同様の理由により不可。
 *なお事件発覚時刻が遅くとも6時であった理由は下記「事件発覚時刻
  について」を参照。

 つまり事件発覚時刻が早かった事を前提とする以上、公式発表
通りに犯人が自転車・脅迫状を持込んだとする事は不可である。

 但し、犯人が親戚や身内の者若しくは捜査員、又は犯人にそれ
らの者が含まれていた場合にはこの限りでは無い。
次項参照。
   
 2に就いては脅迫状は確かに堀兼駐在所に届けられたのかも知
れないが、その後被害者宅に赴いた警察官が自転車と共に領置し
たと言う事であるならば、領置場所が被害者宅であっても特に問
題は無い。

事件発覚時刻について

 既出事項だが論点を簡略に纏める。

公式発表事実

 
 5月1日(水)
 11:50 被害者、学校でカレーライスを摂取
 14:35 授業終了
 15:23 下校
 18:50 姉と共に農作業の後、長兄が被害者を迎えに行く
 19:05 長兄入間川分校に到着。用務員に面談。所用5分
 19:30 入曽駅経由で帰宅。玄関土間でうどんを摂取
 19:40 長兄、玄関戸に差込まれた脅迫状を発見。末弟に
       取らせて内容を確認。この際、落ちた学生証を次
       兄が手に取って拾う。隣家の親戚(中田玉平宅)
       に後事を依頼し、自動車で駐在所へ向かおうとし
       た処、車の脇に自転車を発見。サドルは濡れてい
       なかったと言う。
 19:50 父と長兄、車で出発。
 19:55 堀兼駐在所で通報を受理。
 

疑 問 点

 
 1=長兄帰宅から僅か10分の間隙に、脅迫状と自転車が届け
   られた事。
 2=脅迫状発見から僅か10分の間隙に、文面を読み、隣家に
   依頼に走り、自転車を発見し、駐在所へ通報に走る。これ
   らの事を、考慮の暇無く実行。
 3=脅迫状を末弟に取らせたとの事であるが、末弟の指紋は検
   出されていない。脅迫状から検出された指紋は長兄と、駐
   在所での警察官のものだけであった。
 

細田元所沢署長の証言

 
 これが出ていたのは周知の様に「狭山事件 無罪の新事実
亀井トム・栗崎ゆたか著(1977年)。細田行義元所沢署長を取材した処、「5月1日午後6時半頃、上田明県警本部長が所沢署を訪れ狭山市で誘拐事件発生の為、西武園の検索を指示した」。
 亀井氏らは真偽を確認の為合計7回、細田氏を訪問したが、こ
の日時に間違いが無い事を細田氏が断言。
 細田氏は、昭和38年10月に定年退職。細田氏を文珠社グル
ープと亀井トム氏らが訪問したのは、昭和51年6月初旬であっ
た。なお裁判状況は当時、最高裁へ上告書提出段階であった。
 事件当時所沢署長と言う要職にあった細田氏が計7回の取材に
答えて断言している事、その細田氏が今だ存命中の出版で尚且つ
その実名を記しての記事である事等から、この証言の信憑性は極
めて高い。
 
 よって、事件発覚=通報は遅くとも1日午後6時より前。
 

推 理

 
 事件発覚は脅迫状より前、恐らくは当日午後5時〜5時半頃、
被害者宅に有線電話を通じての第1回脅迫。この有線電話は電々
公社回線にも繋がっており、従って脅迫場所(脅迫者)は有線の
範囲内とは限らない。市内の公衆電話を使用したと思われる。
 第1回脅迫によって警察への通報が為され、6時前後には警察
の初動捜査及び家族と親戚による被害者の捜索が始まっていた。
 
 この状況で犯人が自転車と脅迫状を、被害者宅に届けた可能性
は少ないと見て良い。自転車と脅迫状は犯人の指示により、長兄
の手によって何処かより回収されて来たと見る。この回収があっ
たのが公式発表に顕われた長兄の学校訪問への途中であったと思
われる。*現在はそう思っていない。下記「第2説」参照。
 
 こうした状況であれば家族が自転車と脅迫状回収後すぐさま、
この事実を駐在所に届け出た事、及び脅迫状についた指紋が長兄
と捜査員のものだけであった事は自然である。
 
 問題は事件発覚の時刻と状況が、何故公式発表の如くになった
のか。
 

有線電話について

 
 有線電話に就いて、新井泉氏の調査によれば概略以下。
 当時堀兼地区の電話というのは、農協(現JA)が主体となっ
た(役場と連携していたらしい)有線電話で、電電公社=現NT
Tとは別の農協独自の回線だった。当時はまだ電電公社の電話は
設置、通話料金が高く設置する家も少なかったため、農協がサー
ビスの一環として 会員宅に設置していた。
 主に一斉放送にて農作物の市況、天気、村での行事の連絡に使
用されていて、会員同士の通話や電電公社回線と接続が可能だっ
た。

 恐らく、飲食店などで良く見掛けるスピーカー端末の設置に加
えて、電話器が設置されていたものと見られる。
 
 ただ当時は交換機の回線数が少なく優先順位などありあまり接
続は良くはなかった。
 昭和40年頃電電公社が料金引き下げた等の理由により廃止。
 また当時、農協回線を『有線』電電公社回線を『電話』と呼ん
でいた様である。
 
 長兄が公判にて「電話が自宅に無い」との証言したのはひょっ
とすると「自宅には有線=農協回線はあるが、電話=電電公社回
線は無い」という意味だったのかも知れない。
 また妹の所在を学校に電話で問い合わせをしないで車で探しに
行ったと言うのは、車で出掛けなければならない理由(自転車、
脅迫状の回収等)が他にあったのかも知れない。
 
 当時の有線電話が一般電話にも繋がっていたにしても、被害者
宅の有線電話番号を知っている者の犯行だったのでは?と言う疑
問に対しては、
 当時の交換機は今のような自動交換機ではなく、その都度オペ
レーターが回線を接続するという物で、電話番号を使って電話を
かける以外にも、オペレーターに直接『何処の誰の所』と告げれ
ば接続されたと考えられる。当時N家は地域でも指折りの大きな
農家で、農協のオペレーターにその旨を告げれば容易に接続され
たと思われる 。
 つまり電話番号を知らない事が、電話を掛けられなかったとい
う事にはならないと推測される。従って不特定多数の人がN家に
電話をかける事ができたであろう。
 また電電公社回線から農協回線へつなぐにも、一度農協の交換
機(オペレーター)を通さないとならないので、「下赤坂の誰々
宅」だけで充分接続できたと思われる。

 
 なお、この有線電話は堀兼農協管内約1500世帯であった。
 

細田証言の信憑性に就いて

 
 細田証言そのものに信憑性が無いケースを検討。
 1=細田氏の記憶違い(上田県警本部長の所沢署訪問は2日以
   降或いは全く無かった)
 2=細田氏の虚言(何らかの理由で上記の事を「1日6時半」
   と嘘を言った)
 3=亀井氏らによる虚構(創作)
 
 1に就いては亀井氏らにとっても、証言が事実とすれば狭山事
件の様態を根底から覆す重大事実である為、合計7回に渡って細
田氏宅を訪問し、確認を重ねている。それに対し細田氏自身も、
『如何なる事を言われようと自分の言った事に間違いは無い』と
断言。何故『1日』と断言出来るのかに就いては『メーデーとの
結びつきで記憶している』。
 2に就いては、警察にとって確定判決を根底から覆すこの様な
証言を、わざわざ嘘をついて迄する理由が無い。
 3のケースはどうだろう。これがもし「元警察幹部A」と言っ
た匿名のニュースソースによる記事であったならば、その信憑性
は少なくとも半減はするのだが、公刊書籍へ証言者の実名を記載
しての「ガセネタ」を、亀井氏らが、敢て掲載した蓋然性は極め
て低い。
 以上の理由から、この証言は無視出来ぬものと考えて良い。勿
論公刊書籍に書いてある事だからと言ってその全てを正しいとす
る訳には行かない。しかしこの証言に限って言えば、現時点では
それを「無視」出来ないと言う事である。
 
 では何故細田元署長が、その昭和51年当時その様な証言をし
たのだろうか。
 昭和39年9月、石川氏は第二審で初めて、一審でも維持して
来た「自白」を撤回。しかし、その二審も49年10月、ほぼ丸
10年を経た揚句に有罪=無期懲役判決となった。細田証言時点
ではまだ判決確定の段階では無かったが、警察官僚サイドとして
はほぼ有罪確定と言った雰囲気であったと思われる。
 他方「所沢署長」と言う、事件捜査本流からすれば言わば傍流
の(所沢署が捜査に果たした役割は、脅迫状に「西武園」と言う
管轄区域が含まれていた事と、勿論佐野屋を含め狭山署への応援
体制も組んだが、飽く迄「狭山署現地」からすれば管轄区域外)
の警察署長であった事、そして細田氏自らも既に定年後10余年
を経過していた事、などから、事の重大性をさほど認識していな
かったのでは無いか、と、その心理を推測出来る。
 
 事によると細田行義氏自身、事件当時から「箝口令」に反発を
感じていたのでは無いか。「メーデー警備がやっと終了して一服
していた時に、突如として県警本部長が現れて西武園の検索を命
じられて深夜早朝迄働かされた揚句、それを無かッた事にしろと
は」と。
 それでも10年は黙っていたが、折良くと言うべきか現れた取
材の連中に、その鬱積も含めて暴露した、と。所沢署長は隠蔽工
作や冤罪デッチ上げの首謀者には入って無かろうから、そうした
感慨を抱いていたとしてもあながち不自然では無いと思われる。

その細田氏も存命ならば当年101歳。残念ながら、もう亡くな
っている可能性が高い。
 

事件発覚時刻隠蔽の理由

 
 これは推理。
 第2審60回公判
 山上弁護人=事件当日のことに入りますが、あなたに思い出し
    ていただきたいのですが、5月1日の朝からのお仕事の
    内容どういうことをなさったか、思い出していただくた
    めに、夜7時40分頃に脅迫状を見つけたということに
    なっていますから、それ以前のことを遡って、5月1日
    のお仕事はどういうことでしたか。
 中田健治=ホーレン草だか山東菜だかを作ってたと思います。
 山上=それはお家でなさっていらっしゃったんですか。
 中田=家の前でやるわけです。
 山上=敷地の中で。
 中田=そうです。
 山上=その仕事はいつまでかかったんですか。何時頃まで。
 中田=3時か4時頃から雨が降って来て、雨にかかりながら納
    屋の軒先でやっていたんですが、5時までかかったんじ
    ゃないでしょうか。
 山上=そうすると5時位から一服ということになりますか。
 中田=その間に3時休みとか、することはしますけど。
 山上=5時以後はどういうことになるんでしょうか。
 中田=・・・
 裁判長=自動車で迎えに行かれたのが6時50分ということに
    なっていますが証拠上。その間ですね。
 中田=迎えに行く寸前までかかっていたように思ってますね。
    仕事が。それから洗ったり、荷造りしたりして。水洗い
    などしますから。
 「空白の2時間」と言われている所以である。
 
 1=農作業を行っていた場所は納屋(自転車の置き場)
 2=5時以降を問われて沈黙。
 
 「無罪の新事実」より抜粋
 狭山市役所堀兼支所から少し入間川寄りの道路際に原島自転車
店がある。そこの主人の話では、五月一日の夕方、中田栄作の親
類の者がたずねてきて、「善枝が学校から帰ってこない。誘拐か
もしれない。そうじゃないかもしれないが心配して探している。
もし善枝が立ち寄ったら、家の者が心配しているから早く帰るよ
うに伝えてくれ」との伝言を残していったというのである。原島
自転車店の主人の話では、善枝の家族の者が来たというのではな
い。上赤坂地区に多数ある、中田家の親類の1人が来たという。
「後で考えれば、ちょうどその頃脅迫状が来てたんだ」というと
ころをみれば、中田家の親類の者が原島自転車店をたずねて伝言
を残したのは、7時30分前後のことと思われる。

 
 第1説
 上記公判証言と自転車店主人の話、及び細田証言から第1回脅
迫を午後5時頃と推定。その時刻まで納屋の前で農作業をしてい
た長兄や姉を含め家族のもとに、電話が掛かる。電話の内容は
「娘を誘拐した、要求は後で通達する、もし要求を容れなかった
場合には西武園の池の中に娘の死体が浮かぶと思え、自転車が第
2ガード下に置いてあるからお前1人で来て見ろ、ちなみに当方
はお前達一家の秘密も良く承知しているから跳ね返った事はしな
いのが身の為」
恐らく長兄がこの電話に出た。
 以前から地域的な遺恨とかトラブル等思い当たる節があった被
害者宅ではすぐに警察に通報した。警察はその電話内容から、堀
兼周辺と西武園付近の検索を指示した。当時は約一ヶ月前、吉展
事件で犯人を取り逃がして未解決だったことがあり、警察も世間
一般も、「誘拐」には非常に敏感になっていた事情があり、早々
に捜査態勢を立ち上げたものとみられる。
 
 但し5時時点ではまだ警察も家族も「いたずらとも誘拐ともつ
かない」特に家族は、本当に誘拐したのかも知れないがそうでは
ないかもしれない、そうでない場合は選挙や地域内の遺恨が絡ん
だ嫌がらせ、という印象だったのだろう。しかし取り敢えず家族
は親類にも頼んで娘を探しまわり、警察は周辺の聞き込みと西武
園方面の検索を開始。
 日没は6時半頃。暗くなる迄探し廻ったがまだ被害者は帰って
来ないし見つかりもしない。時ここに至って、長兄は6時50分
学校へ赴く。途中、おそらくは第2ガード付近で自転車を回収。
同時に脅迫状を手にする。長兄は後に公判証言に於いて「ガード
のひとつには行った事が無い」と証言。
 
 脅迫状が濡れて読めなくなる事を防止する為、自転車をガード
下に置いたものと想定される。脅迫状自体には周知の通り、「警
察や近所の者に知らせれば子供は死」と書かれ、「死」を強調す
る内容である。
 
 この時点で「誘拐ともいたずらともつかない」とか「誘拐かも
知れないしそうでは無いかも知れない」と言った認識で、脇の甘
い、犯人側に察知されるかも知れない動きをした事で、警察・家
族双方に早くも焦りが生じる事となった。
 
 3日午前0時過ぎ、佐野屋に犯人が現れたが取り逃がす。
 被害者安否はこれにより、絶望的となる。
 公開捜査は同日午後6時。
 警察はこの時点で是が非でも、佐野屋での失敗が被害者の殺害
に繋がった事を回避する事と初動捜査の甘い認識を隠蔽する動機
また家族は、こうした警察側に迎合する以外にも、被害者の奪還
が絶望的となった今、事件そのものの背景となったとも思われる
家族内の機密事項の漏洩を防止する事を最優先する様になった。
長兄には午後7時頃と言う時間では無く、電話での脅迫を受けて
からすぐに自転車を(即ち脅迫状を)取りに行けばまだ何とかな
ったのでは、との思いもあったかも知れない。
 
 佐野屋での取り逃がし自体は証人が多すぎる為に発表せざるを
得ないが、自転車と脅迫状発見の経緯に就いて創作をした、と。
 1日午後7時40分、自宅で脅迫状を発見し、通報をした後で
初めて、被害者の捜索を隠密裡に開始した、と。捜査は佐野屋の
失敗迄、隙を見せず完璧に行われた事、犯人側に気取られる事は
無かった事を端的に示したかったと言う推理である。
 
 第2説
 第1回脅迫と警察への通報迄は第1説と同じ。相違点は第1回
脅迫の内容に自転車の回収を含まない。よって、自転車と脅迫状
は公式発表通り、被害者宅に7時半頃、犯人側により届けられた
と言う事である。
 既に親類の者や捜査関係者の出入りがあった被害者宅に、自転
車と脅迫状を届け、自転車の方は日常被害者が駐輪していた納屋
に正確に返納する事が出来るのは、被害者宅を良く知る親類・身
内の者だけである。犯人側に、こうした関係者が含まれて居た。
 事によるとその者とは、OGであったかも知れぬ。OGは既出
の様に()この日午後7時迄実家に居たが、それから犯人側の
車に乗るか、その指示に従って堀兼地区のどこかで自転車を回収
する事も可能。
 
 その者は親類を動員しての被害者の捜索に加わっていた者だっ
たか、或いは噂を聞き付けて被害者宅に赴いた。途中迄は車で移
動、夜間人気の無い裏道付近で車を止め、その裏道をつたい、被
害者宅敷地内に侵入。既に激しい降雨となっていたせいもあろう
か、その者にとって幸いな事には、この時に屋敷前に人陰は無か
った。
 納屋に自転車を置き、玄関引き戸に脅迫状を挿入。
 
 家族や他の親類の者或いは捜査員に目撃される可能性も想定済
みの行動。その場合には「善枝を捜し廻ったがどこそこで自転車
とこれ(脅迫状)があったので持参した」と申し向ければ良い。
しかし兎も角ここでの目撃は避けられた。学校へ行ってから帰宅
した長兄と鉢合わせをする可能性もあったが、その場合でも上の
言い訳で充分である。或いは、長兄の車での出発を把握出来る立
場の者であったかも知れない。
 既に被害者の捜索を開始し警察にも通報していた家族は、脅迫
状発見と同時に堀兼駐在所に通報。
 
 公式発表時に第1回脅迫を特に発表しなかった理由は、第1説
と同様の事情と共に、自転車・脅迫状(加えて同封の学生証)と
言う明確な物証が現れた時点で、事件発生と言う事にした。自転
車と脅迫状自体の発見状況に嘘は無い訳で、警察・家族双方にと
っても「全部を語らないだけで嘘を言っている事にはならない」
訳である。
 「長兄或いは家族の誰かがよそで回収」説や「一旦被害者が帰
宅した」説を取ると、「何故警察や家族は全く嘘の発表をしたの
か」を明確に説明しなければならないが、この第2説であると、
その必要は無くなる。
裏道

 検討
 第1説、第2説の論拠として、細田証言以外に、
 1=公判での5時以降の出来事に就いての長兄の沈黙
 2=ガードのひとつには行った事が無いとの長兄証言
 3=自宅に「電話」が無かったかの様な長兄証言
等がある。
 1は上で説明した通り。2はガード下で自転車を回収した事を
隠す為の証言=第1説。3は他でも検討した如く、第1回脅迫を
隠す意図から出たものと解釈。
 
 第1説は苦心の末考察して見たものだが、脅迫状等の発見状況
迄警察・家族双方が同意の上「創作」をしたと言う点、少し、否
可也苦しいものがあろう。ここでは自転車・脅迫状を家族が犯人
の指示によって運んで来たとの設定であるが、被害者自身が一度
帰宅したと言う推理も過去にはあった。
 が、家族が運んだにせよ、被害者が帰宅したにせよ、警察と家
族双方同意の上、事実とは全く懸け離れた創作を、公式事実とし
て発表すると言う事は、何かそれを更に強く裏付ける新事実が発
見されない限り、やや荒唐無稽と言った感を免れまい。
 また、佐野屋失敗後の公開捜査移行と言う時点で、事件発覚状
況自体を創作してしまうと、警察は犯人に有利な材料を、アリバ
イその他の点で与える結果になり、自らの首を絞める事になる。
世間の非難を少しでも緩和しようと言う意図どころでは、これで
は無くなってしまうのである。
 
 そこで提示して見たのが第2説である。
 第2説であると、自転車と脅迫状の発見時刻及びその状況を、
無理をして創作とする必要は無くなる。脅迫状の発見後すぐに通
報に走った事も納得出来る。勿論、細田証言による第1回脅迫が
あったと思われる事実にも特に矛盾しない。また上にも記した様
に警察側にとっても特に事実とは似ても似つかない虚偽を発表し
た事にもならず、第1回脅迫の事実を伏せた事は、後で犯人を逮
捕した際、その事実は「犯人にしか知り得ない事実」の材料とし
て取っておいたとの解釈も出来る(実際には石川氏を逮捕し、全
く別のストーリーを「創作」した訳であるが)。
 
 第2説を取る場合、上記1〜3迄の長兄証言に就いてはどうな
るだろう。まず、公判証言と言うものは石川氏を逮捕し、虚偽の
ストーリーによって石川氏を自白へと追い込み、検察側はそのス
トーリーに則って裁判を進行させようと意図している事に注意す
る必要がある。長兄は警察・検察側に迎合し、勿論自らも家中の
世間には知られたくない機密事項を極力隠蔽しようとした。従っ
て検察側の描く石川有罪ストーリーに反する事実に対しては、起
訴事実に沿って否定的に証言したとしても可笑しくは無い(これ
は長兄だけでは無く、勿論警察関係者の証言に就いても同様であ
る)。
 よって、上記1=第1回脅迫時の様子。これが事実なら石川有
罪は有り得ない、2=ガードに関するもの。ガード下に被害者が
人待ち顔で居た事も石川有罪ストーリーに反する、3=電話。こ
れも第1回脅迫に関連して極力その存在を隠そうとした、これら
は全て、第2説の論拠とも成り得る。
 
 筆者自身は当初、「黒幕説」等を執筆した際、ほとんど第1説
を取っていた。しかしそれだとどうしても、では何故事件発覚時
刻とその状況に就いて隠蔽し、架空の時刻と状況を発表したのか
が全く解らず、常にそこで推理が止まっていたのである。
 殊に警察だけで無く家族にとっても「創作」をして納得の行く
状況と言うものを想定する事は困難を極める事である。仮に警察
側に隠蔽と創作をする動機(メリット)が存在したとしても、被
害者家族側がそれで納得するものであろうか。そして何としても
事実とは全然別の事件概要を公表したとするには、余程の強烈な
出来事が必要である。亀井トム・栗崎ゆたか氏らは、その「強烈
な出来事」とは3日午前0時の佐野屋の前に、既に犯人取り逃が
しがあったと推理した。なる程そう言う事があったならば、まだ
しもこの創作の納得の行く解答にはなる。逆に言うとそう言う事
を想定しないと、「創作を発表」説は成立しにくいのである。
 
 しかし3日以前の取り逃がしを想定してもなお疑問が残る。自
転車・脅迫状の見つかり方迄「創作」する事の理由が解らない。
 
 又、家族はこれでは納得しまい。犯人を取り逃がした事はもっ
ぱら警察の落ち度であって、家族は怒りこそすれ、警察の隠蔽工
作(隠蔽を通り越して作り話のでっち上げ)の共犯者となる理由
は無い。身代金受渡しの現場に立った姉が刑事の合図に驚いて大
声を出してしまた事が家族側の落ち度となった、と言う推理もあ
ったが、それだけで「創作」に積極的に加担するには動機が弱す
ぎる。またこの場合でも「落ち度」は緊張した素人家族を驚愕さ
せる様な合図をした捜査員側にあるとも言える(周知の様に同書
では更に「佐野屋の自作自演」と言う更なる「大創作」が想定さ
れている)。
 
 と言う様な事を考えた結果、上記第2説に落着きつつあると言
うのが現状である。(2004/12/30)
 
 *追記=自転車返却について*
 1=自転車は犯人が持って来た
 2=自転車は被害者自身が一旦帰宅
 3=自転車は長兄らが何処かから回収
 自転車返却に就いては主に上記3説に収斂される。上述の第1
説では3の事態を想定。しかし既に述べた様に2若しくは3の事
態を想定した場合、では何故全く嘘の公式発表をしたのか、何故
家族もその作り話に積極的に加担したのかの説明が必要となり、
現在の処その納得の行く説明は小生も含め誰にも出来ていない。
2又は3の事態を想定する論者は是非、「公式発表の謎」に就い
て明快な論証しなければならない。
 小生自身はその為、1の可能性に回帰し、それが上述第2説で
ある。但し、ニュアンスとして少々追記しておきたい。
 
 第一次の脅迫により警察に通報し、既に邸内に親類や捜査員ら
の出入りもあった状況で、犯人側が自転車や脅迫状を持参する事
への疑問も提起されているが、それは例えば長兄が上記3の状況
で搬入した場合でもある種同様の事であろう。
 見方を変えて記せば、例えば犯人側が第一回の脅迫に於いて自
転車を放置した場所を不明確な形で通告していたと仮定すると、
それを回収して搬入した者は長兄でなくとも、被害者の捜索に参
加していた(或いは被害者の行方不明を聞きつけた)親類や知人
であっても格別不思議では無い。
 要するに上述の第2説に於いて、第一義的には1の可能性を取
っているが、被害者捜索をしていた他の者が自転車を発見して持
参したと言う意味に於いて、第2説は3の状況もニュアンスとし
て含むと言う事である。
 
 但し。勿論この第2説に於いては、搬入をした者は犯人側に加
担していた者である。善意の第三者と言う意味では無く、善意の
第三者を装うと言う事である。自転車と脅迫状を持参した時に、
もし発見されたならば「捜索隊の一人として動いていた処、どこ
そこにこれがあったので持参した」と申し向ける。結果的には発
見を免れ、当初からの計画通り納屋に密かに自転車を配置し、引
き戸に脅迫状を差入れたのであった。
 
 1にニュアンスとして3も含有。そしてこの第2説ではやはり
自転車と脅迫状の発見状況自体には嘘は無く、従って何故公式発
表の様な事になったのかと言う最大の謎を解く必要は無い。
 よって、1の可能性を排除し2又は3の可能性だけで推理を構
築する論者は、決定的な事項として、「公式発表の謎」と言う自
転車返却の謎以上の重要事項に就いても合わせて、説得力を有す
る推理をしなければならない。話はそれからだ。

*謎を解こうとして推理をし、その自らの推理によって更なる謎を作る事は全く馬鹿げている。
 
  *追記2=長兄説への適用*
 上記の意味で広く考えると、長兄が自転車を自ら配置し、脅迫
状を自ら差入れておいて、「善意の被害者家族」を装い、それら
を発見して警察に通報したと言うのが所謂長兄説の骨子である。
その場合、もしその行為を発見された時には「どこそこにこれが
あったので車に積んで持って来た」と申し向けるつもりであった
かも知れない。もっとも小生は長兄説では無いので、これは長兄
説を取る人への蛇足的アドバイス。いらぬお世話として流して頂
きたい。

△自転車の鍵は一応付いていた様である。

「佐野屋自作自演説」に就いて

 事のついでだが「3日佐野屋が警察の自作自演」説に就いて。
 この説の要点は3日零時過ぎの佐野屋以前に本来の張込みと犯
人の出現があり、そこでの取り逃がし、従ってその結果としての
被害者殺害を隠蔽する為、警察の一部幹部により工作されたのが
3日の佐野屋であった、と言うものである。
 
 この説のネックは脅迫状にある。ネックと言って悪ければ、こ
の説を取る場合には脅迫状本体も、初めから警察の偽造と言う条
件を加える必要がある、と言う事だ。
 その理由は日付の訂正部分にある。「五月2日」と訂正される
前の日付は、「4月29日」であった。とすると、例えば犯人指
定の日付が5月1日であったとする事は、脅迫状を見る限りでは
有り得ないと言って良い。
 つまり「犯人は1日夜、前の門に現れたがこれを取り逃がして
しまった。そこで警察は脅迫状を訂正し、日付を2日に、場所を
佐野屋として偽装を計った」とは言えない訳である。訂正前の日
付は確実に「4月29日」だったのだから。
 仮に身代金の受渡指定「1日」は、電話で通告されたのだとし
ても、そうなると今度は脅迫状の存在意義自体が全く無い事にな
る。
 
 従って、2日夜12時(3日零時)の佐野屋が警察の偽装であ
ったとする説を取る場合には、脅迫状自体も、訂正部分だけでは
無く全部、警察の偽装としなければならない、
と言う事である。
 
 「脅迫状の存在意義自体が全く無い事になる」は過言だとして
もいづれにしろ、脅迫状の全部を警察が用意したのならば訂正前
日付を「4月29日」にした事は至極納得が行く。警察は「1日
の取り逃がし」を完全に隠蔽したいのであるから、脅迫状作成に
当たっては「4月29日」と書き、それを意図的に「五月2日」
と訂正する事によって、
 『当初「少時」方の子供を誘拐する予定の犯人が後で誘拐対象
と日時を変更した』
との筋書きを作った。そうなる。
 この脅迫状を犯人が作成し、日時と場所の訂正だけが警察の偽
装且つ犯人指定の本当の日付は1日だった、とすると、訂正前の
日付が矛盾して来る、と言う意味。
 
 脅迫状を犯人が書いて尚且つ指定日付が「1日」だったのなら
脅迫状の訂正前日付も「5月1日」でなければ辻褄が合わない。
脅迫状は警察が書いたものとした方がこの点はクリアー出来る。
と言うのが上記の結論。
 
 但し、警察が脅迫状を作成したとすると、難点が一つ。
 それは、石川氏がその訂正前日付に就いて4月「28日」と自
供させられている事だ。警察が自分らで脅迫状を作っておいて、
こう言う間違いをわざわざ自供させているのは矛盾する。
 もっとも、脅迫状の作成など「佐野屋」の陰謀に加担した者と
石川氏の取調べに当たった捜査官が違うとも一応は考えられる。
 しかし、取調べを主導した長谷部警視が、「陰謀」を知らなか
ったとは考えにくい。
 脅迫状を犯人が書いたにしろ、警察が作成したにしろ、「1日
本来説」には、この様にどうしても矛盾が出て来る事から、小生
としてはその説を取りにくい。
 
 また自演説そのものに就いても、1日に取り逃がしをしたのな
ら公開捜査時点ではたんにそれを公表しなければ良いだけで、犯
人逮捕時にはその事実はそれこそ「犯人にしか知り得ない事実」
として利用した方が良い。そうせずにわざわざ、もし漏洩すれば
それ自体大失点となる大掛かりな自作自演などを企画し、尚且つ
犯人にはアリバイを自ら作ってやって逮捕を永久に不可能にする
様な間抜けな策謀をするとは、どうも思えないのである。
 自演説の根拠には細田証言の他、次兄が後年、5月1日の張込
みに就いて「ああ、家の前でやりましたね」と語った事が挙げら
れているが、事件発覚後に於いては脅迫状の訂正前が「前の門」
であった事もあり、被害者宅周辺をも警備、張込みをする事は当
然の事であり、次兄証言も「家の前で張込んでいた」と言う事で
あって、「家の前で取り逃がしをしていた」と言った訳でも無く
要するに張込み=犯人出現・取り逃がし、では無いと言う事であ
る。
 
 *追加=自演説に於ける犯人像*
 亀井トム氏はその著作に於いて、事件の本質を「遺産相続に動
機を持つ農村の血縁犯罪」とし、犯人像としては極めて具体的に
「長兄主犯+IT・OG共犯」説を取り、全著作に渡ってその姿
勢はほぼ一貫している。
 昭和51年、上記の様に細田証言が得られた事から、佐野屋自
演説を展開する様になってからも、その犯人像に変わりは無い。
 別の言い方をすると、佐野屋自演説は「長兄主犯+IT・OG
共犯」説の延長線上に成立しているものである。少なくとも、佐
野屋自演=これ即ち事件発覚時刻の隠蔽と改竄 は、第一に5月
2日以前での犯人取り逃がしがあった事、第二にこの犯人が被害
者の血縁者・身内である事、この二点を必要条件とするものであ
る。
 
 ここでは第二の点に就き検討して見る。
 もし犯人像を、被害者宅と敵対関係にある他家や地縁者である
とか、被害者の個人的交際相手であるとか、或いは全くの無関係
者であるとした場合、仮に上記第一条件の2日以前での犯人取り
逃がしがあったとしても、それはもっぱら警察の落ち度であり、
被害者家族側が警察の隠蔽・改竄工作に協力する理由が無いから
である。
 即ち、主犯が長兄(または他の血縁者)である場合にのみ、警
察の工作に協力する動機が発生するのである。それによって永久
に自身の犯罪発覚を免れる結果となるのだから、当然であろう。
 この状況を亀井氏はいみじくも「背中合わせの同盟」と言って
いる。
 
 筆者(小生)はまた別の観点から、現在は身内・血縁犯罪説に
は否定的な立場に立っており、その理由は「長兄説」頁など別項
を参照して頂きたい。
 つまり犯人像を身内とは見ない立場からも、佐野屋自演説には
否定的立場である、と言う事である。佐野屋自演説を取るならば
身内犯行説を取るしか無いと考えている。その点、亀井氏の論説
には一貫性があるものと認められる。身内以外の犯人像を想定す
る場合には、被害者家族側が何故その様な警察の工作に協力した
のかに就いて、余程見事な解説を必要とする、と言う事である。

被害者宅墓所は両墓制ではない

 5月23日、石川一雄氏逮捕から41年目のこの日、狭山現地
に追加調査に出向いた結果、被害者宅の墓所は元来「両墓制」で
はなかった事が判明した。
 
 本件と両墓制の関連に就いては従来
 1=被害者宅の墓制は両墓制である
 2=屍体埋没方法及び芋穴から発見された風呂敷と棒が両墓
   制の逆形式を表現していると見られる。又こうした墓制
   を擬した工作が為されている事も含め、埋没方法には屍
   体に対するある種の配慮が見られる
 3=よって犯行者は自家に両墓制の墓所を有する人物、且つ
   被害者に極近い関係を有する人物である
との推測が亀井トムによって為されて来た。また東京大学教授和
歌森太郎、京都大学教授上田正昭は『玉石、棍棒について』と題
する鑑定書を作成し、屍体と共に発見された玉石が両墓制に見ら
れる拝み石、芋穴から発見された棒に就いてはハジキ棒を各々擬
した物ではないかとした。
 
 しかしながら今回、これらの考察の前提の1つであった被害者
宅の墓制が「両墓制」ではなかった事が判明した事により、従来
の屍体遺棄状況に就き、再考を促される事となった。次に被害者
宅墓所が両墓制ではなかった事の論拠を掲げる。これらは当日狭
山市博物館で市内の習俗・文化の専門家(2名)に面談して伺っ
た結果である。
 
 *形式的論拠
 従来、被害者宅墓所の構成が、墓石が立並ぶ前に遺体を埋める
場所が在り、墓石が即ち詣り(拝み)墓、遺体埋葬場所が埋め墓
と解釈され、よってこの墓所が両墓制であったと見られた。
 がそもそも両墓制に於いては、被害者宅墓所に見られる様な所
謂「屋敷墓=自家の敷地内に墓所がある」であっても「埋め墓」
と「詣り墓」が場所的に明確に分別される筈である(=下に掲載
した事件当時の被害者宅墓所写真に見られる分別以上に)。
 
 一般に両墓制の成因については主に次の様に言われている。
 a=改葬(遺体を他の場所に埋め直す)の風習が次第に簡略化
   した結果、遺体そのものは元の場所に埋葬したままで、他
   の場所に初めから石塔を建てる様になった
 b=仏教信仰に基づき先祖の霊を礼拝供養する墓参の風習から
   詣り墓が成立した
 c=屍体の穢れを分離して祀る伝統的思想から墓所を分ける様
   になった
 
 これらの成因のうちいずれが正しいものであるかは現在確定さ
れていないが、いずれにしろ「屋敷墓」で「埋める場所」と「墓
石」が若干離れた位置にある場合であっても、被害者宅墓所の様
に墓石の正面に埋め場がある形態を「両墓制」とは言わない。よ
って用語使用上も、この「埋める場所」や「墓石」を「埋め墓」
とも「詣り墓」とも呼ばない。
 むしろ被害者宅墓所は典型的な土葬墓地の形式を整えている。
土葬に於いては遺体を埋葬した真上に石塔などを建てれば、時と
共に土中の遺体・棺桶が崩壊して石塔もまた倒壊すると言う極め
て物理的な理由から、埋葬場所と石塔建立場所が多少離れている
事は当然な事である。他方、土葬即ち両墓制ではない事も当然で
ある。
 この様に、土葬墓地で埋める場所と墓石が少し離れている様な
ものは、「両墓制」とは言わないのである。
 専門家に、当時の被害者宅のこうした写真を見せても、これが
両墓制である事は、明確に否定していた。(後日、被害者宅の墓
地の昔の写真を持参して、再度確かめたが、やはり再度これが両
墓制では無いと、はっきりと否定された)
 
 *歴史的論拠
 狭山地域に於いて両墓制が行われていた場所としては、市内鵜
ノ木・長栄寺及び根岸・明光寺(共に真言宗智山派)がある。こ
れらの寺院では詣り墓を「ひきはか」埋め墓を「しばら」(明光
寺)、「たっちょうば」(長栄寺)と称する両墓制が、昭和四十
年代頃迄行われていた。
 しかし被害者宅墓所がある堀兼・赤坂地区は、江戸時代に至り
新たに開墾・開発された土地で、それ以前に狭山地域に存在した
両墓制はこの一帯では行われなかった。

 *推理
 冒頭1〜3の亀井説を小生自身は当初「考え過ぎ」との感想を
持ち仮に犯人が被害者近親の関係者であったとしたならば尚更、
自分と被害者との続柄を暗示するかの様な屍体遺棄工作を行う筈
は無いとの考えであった。
 
 次には、もし上記1・2迄の仮定が正しいとするならば、むし
ろ犯人は被害者近親者では無く、両墓制の逆形式を表現する事に
よりもっぱら屍体へ或いは被害者宅への怨恨を表現したものか、
とも考えていた。
 
 しかしながらそもそも被害者宅墓制が両墓制ではないのならば
亀井説はもとより小生自身の考察も、再考を余儀なくされる。
 
 
 では上記事実が判明した今となってもなお、本件屍体埋没状況
に「両墓制」が関連している事があるだろうか。その可能性につ
いて敢て推測するならば、
 A=犯人の自家若しくはその付近で両墓制が行われていた
 B=犯人が被害者宅の墓制を両墓制と勘違いしていた
これしか無い。
 
 Aは犯人の居住地域に於いて両墓制が行われていた事により屍
体を埋没するに当ってその習俗を意識的に表現したと言う事であ
る。
(犯人が無意識的に自己周辺の習俗を表出した事はほとんど有り
得無い。例えば玉石が自然状態で屍体埋没地付近の土中に存在す
る事が無い以上、玉石は犯人が意識的に現場に持込んだ物である
から)
 しかしAは当初同様、犯人がわざわざ自らの出自を暴露する様
な行為をしたとは考えにくい。その上狭山市周辺で両墓制が行わ
れていた地域が被害者宅周辺からは離れた地域であった事も当説
には不利である。両墓制墓地を持つ明光寺、長栄寺は根岸、鵜ノ
木にあり檀家は市内広瀬、笹井、根岸付近であるが、堀兼・上赤
坂地区とは可也離れている。他方、犯人は当時看板も掛かってい
なかった土地の酒屋であった佐野屋を指定するなど、堀兼地区に
可也土地勘を有する者と見られ、この点からもA説は蓋然性が極
めて低い。
 
 Bは亀井トムそして今日迄我々がそうであった様に、にわか仕
込みの半玄人には一見「両墓制」に見える当時の被害者宅墓所を
犯人もまた早計に両墓制と思い込み、そこから先は冒頭1と2前
段の意図を持って屍体埋没を実施したと言う事である。
 この可能性は全く無いとは言えないが、勘違いに基づいて用意
周到で手の込んだ「埋葬」を行うと言った、ある種の間抜けな犯
人像となる。敢てこうした墓制を犯行様態に応用する者が、この
様な人物であったとは考えにくい。何よりも、堀兼・上赤坂地区
の地理に長けたもの=土地の者 が犯人であるとすれば、土地の
墓制に就いてもこの様な勘違いをしていたとも考えにくい。
 
 上記の理由により、本件犯行を考察するに当って「両墓制」を
その根拠とする蓋然性、必要性は圧倒的に低下したと断言せざる
を得ない。             
 *メモ=引続き、上記の考察を補強し正確ならしめる為に更に調査する
  事が肝要である。1=狭山市に於いて両墓制が行われていた地域の限
  定。
  2=行われていた両墓制の正確な形式。3=堀兼地区の墓制詳細。以
  上要再調査の事。
 *調査結果=狭山地域で両墓制が行われていたのは上記明光寺、長栄寺
  付近だけである。それらの地域での両墓制慣習は中世に遡り、他の地
  域は江戸期になって新田開発により開けた地域で、そこでは両墓制は
  行われなかった。よって、むしろ両墓制が行われていたのは狭山地域
  の極限定された地域である。
  堀兼地区は通常の土葬、その形式は江戸期迄が「屈葬」明治以降はほ
  ぼ「伸展葬」であった。(8月29日追記)

 但し両墓制が本件には全く関わりが無いとしても、通常の葬法
の逆形式を擬す事により屍体を冒涜し怨恨の情を表したものと見
る事は充分に出来る。
 その場合、土中にあった玉石は霊を封じる表現、顔の下のビニ
ールと後ろ手に縛られた両手は死後の所謂「枕なおし」=顔に白
い布をかけ、手は胸のところで合掌させる を逆に擬した表現、
芋穴の風呂敷と棒については周知の如く風呂敷は荒縄に接続され
た切れ端の本体部分であり棒は先端を地面に挿した後が残ってお
り、要するにこの2つは早期に屍体発見される事を目的に芋穴に
投ぜられた物である、と。
 屍体埋没の仕方に伏在するものに就いては今後の課題。(→こ
れに就いては「屍体埋没」の頁に記しました)
 
 この様に、学術的な専門用語を使用する時には、そもそもその
語が何を意味するのかに就いて、厳密に学習してからでないと、
生半可な知識や素人考えでいい加減な事をやっていると、とんで
もない方向へ流されると言う、これは一例。
               (平成16年5月27日記)
  被害者宅墓所の旧い写真。遺体を埋める場所を墓石が囲む。こう言う
  のを「両墓制」とは言わない。及び、写真に見られる埋め場所と墓石
  も、用語使用上「埋め墓」とも「詣り(拝み)墓」とも言わず、単に
  埋める場所、墓石であると言うに過ぎない。単なる土葬である。
  週刊新潮昭和52年10月20日号(465=476氏サイトより転載)

善枝地蔵に就いて

 『無実の獄25年 狭山事件写真集』に掲載の善枝地蔵が、第
1刷と最新の物では別の写真であり、それらはどう見ても別物で
建っている場所の地形も異なる。また上掲1ー531氏提供の地
蔵写真とも異なり、且つ、最新版での地蔵写真が1−531地蔵
写真と同じ物である。結論として「地蔵は何らかの理由で建替え
られた、写真集第1刷の写真がその初代の物、後のは2代目」と
当初は判断していた。
 つまり、2代目と見られる物が当サイト所収の1−531氏撮
影(上)。
 
 が。『無実の獄』の初代と思われた地蔵写真をこの度専門家に
見て頂いた処、これには蓮華座が無い、また当初から言われてい
た様に、周囲の地形が被害者宅前と違う様に見える(傾斜地に建
っている様子が伺える)事。また、既に破損している状況も見て
取れ、相当に旧い像であろうとの事。
 
 一方、真実の善枝地蔵は事件を知った茨城県在住の篤志家が事
件の年10月に被害者宅へ寄贈した物で、被害者宅と同姓である
よしみにより、善枝さんとその遺族を不憫に思い寄贈をされたと
当時の新聞に掲載されていた(当時の新聞記事を掲載した郷土史
資料による)。
 寸法は本体121cm・蓮華座40cm・中台30cmの立派
なもので、本体費用を除く建立費だけで当時25万円であった。
 
 写真集初出の像が伝えられる善枝地蔵の特徴とは違う事、万が
一地蔵を撤去せざるを得ない事態が発生したとしても、全くの好
意によって寄進された像を、他の像に建替える事も考えにくく、
総合的に推測すれば、善枝地蔵は建替えられる事は無く、終始一
貫当初の像が建立されていたと言う結論。
 
 これが撤去された理由については、墓所の考察に記した如く、
被害者三十三回忌(平成7年)を機に墓所を新たにして供養と為
し、同時に地蔵もその役目を終えたものと見られる。地蔵そのも
のは恐らく、寄進された経緯もあり、それなりの安置をして頂け
る寺院か或いは母屋の敷地内に移動せられたのであろう。
 
 なお、当初我々が「初代」地蔵ではないかと目していた権現橋
袂の地蔵は狭山市博物館所蔵の目録と地蔵の台座にある刻印「亨
保四巳亥天 地蔵菩薩」が一致を見た事と、権現橋のこの地蔵尊
近くに大正13年生誕の時から住み続けていると言う古老の方が
「この地蔵は子供の頃からあった」との証言をされた事により、
亨保年間に建立されたものである事が判明。
 
 では『無実の獄』写真集第1刷にある写真はと言えば、単なる
錯誤によりこれを善枝地蔵と勘違いして掲載し、その後の真実の
画像に差替えられたものと見られる。
 これは狭山市内慈眼寺の石積み地蔵であり、これが何故善枝地
蔵として掲載されてしまったのかを推測するに、この慈眼寺境内
は石川さんが子供時代から遊び場としていた事、及び事件当日慈
眼寺のそばも歩いていた事等から、写真集編集時点で慈眼寺と石
積み地蔵の写真も用意されていたと見られる。
 実際、同写真集119頁「石川さんの真実の行動を追う」と題
した項に、慈眼寺の写真がある。この時、地蔵の写真の方を「善
枝地蔵」として掲載してしまったのだろう。
 
 石川氏逮捕当時、マスコミや一般世間はこぞってその「自白の
事実」を「真実」として信じ込んだ。その逮捕から41年目の日
にして、公刊されている書籍に掲載してある事であっても、必要
とあらばおのれで調べる努力をし、専門家にも当って、その真偽
を追求する事によってしか、「真実」には到達し得ない事を改め
て痛感。
                (平成16年5月27日記)
 *平成17年5月の調査により、写真集初版の地蔵写真は狭山市内慈眼
  寺にある「石積地蔵」である事がほぼ確定出来た。下写真によりその
  事実は疑問の余地無く一目瞭然。
 

OGについて

 *事件当日のOGの行動について。
 
 A=1日午後3時40分頃退社(同僚の証言)
 B=1日午後3時半〜4時頃退社(職場班長の証言)
 C=1日午後5時頃隣家の大野某氏は、荒神様の祭礼に出かけ
   る時、OG新居の前に、「古い自転車」が立てかけてあっ
   て新居の玄関が少し開いているのを見た。
 D=1日午後3時頃隣家の大野某氏は、荒神様の祭礼に出かけ
   る時、OG新宅の玄関が完全に開いており、OGがそこに
   いて「大野さんですか」と声をかけられた。玄関わきには
  「男用の自転車」があった。
 E=1日5時頃OG実家にイトコが来た処既にOGがそこにお
   りまもなく父と兄夫婦も帰宅して酒盛を行なった。
 F=2日午後4時40分隣家の小高某氏とその妻は、関口宅に
   電話を借りに行ってから帰宅する途中、OGが新居に来た
   のを見た。5時半頃OGに傘を貸した。この傘は翌3日、
   OGの父が返しに来た。

 Cは警察の身辺調査による。しかし野間宏氏が大野氏から直接
聴取した結果がDであり、それによるとA、Bの証言よりも早く
既に3時頃にはOGは新居に来ており、なお且つ大野氏にOGの
ほうから声をかけたと言う事になる。
 Eは証言者が父(たぶん母も)、兄夫婦、イトコらであり、血
縁者の証言なので現場不在証明には不可ではある。
 Fは当初1日の出来事とされていたが、電話を貸した関口氏の
証言と関口宅の通話記録によって、2日の出来事であった事が確
認された。降雨は2日も4時半から7時半頃迄雷雨があった。
 

「奥富源治の身辺捜査」

 
 刑事部捜査課伊藤操警部補と同防犯課伊藤正男警部補が昭和3
8年5月6日付で狭山警察署長に提出したもの。以下引用。「源
治」は誤り。
 
 勤務先入間川駅前西部通運株式会社に36・5・21より運転
助手38・5・3まで勤めた。5月1日出勤、本俸一四、〇〇〇
円位同僚奥富光平(28)狭山市鵜の木四八三〇の言によると、
 5/1 車にのらず荷物の整理をし、午后は早じまい。三時四
十分頃帰ったと思う。源治は作業中丸通のマークの入った作業服
上下七枚ハコゼの地下足袋をはく。帰宅のときは黒のナイロンジ
ャンパー、短靴にきかえて。婚約前は、地下足袋でかえることも
あったが婚約後はいつも短靴。
 5/2、5/3は午前八時〜五時までの勤務。同じ車に乗った
が変った様子はない。二〜三日のどちらの日か忘れたが、一日は
新築の家で寝た。雨が降ったので、隣の家で傘を借りて帰ったと
云った。新築の家は死体の場所から直キョリで三〇〇メートル。
おとなしく、酒は余りのまず、小心。人の妻君をみて、俺のおっ
かあの方がいいといったことがあるが、ノロケ話をしたことはな
い。
 
 班長押成正二(50)他二名の言によると、家の者は源治の面
倒を余りみず、弁当もめしだけもってくる。新築に一〇〇万円位
かかり、預金もなくなり、結婚費用など考えて小心だから自殺し
たのではないか。帰宅時間は、三時半より四時頃。正確な時間は
わからない。作業中(5/1)他出したかどうかは光平より聞い
ていない。
 
 傘をかした隣家、踏切番小高操(41)妻左津美(38)から
きくと、一日午后三時半、電話をかけてから家にもどると、源治
が新築中の家に来た。五時半頃みると源治がいるので雨でかえれ
ないものと思い、傘をかしてやった。
 
 右の左津美に電話を貸したという入間川二八四〇の関口得二郎
(48)にきくと、小高が電話をかけにきたのは二日である(川
越へかけた)狭山、所沢局に照会したら、二日午后四時四十分で
あった再び小高左津美にきくと一日と云ったのは勘違いである。
三日に源治の父が傘をかえしにきた。一日に源治が来たかどうか
不明である。
 
 小高の隣家入間川二八四六の守衛大野四郎にきくと一日午后五
時頃、小野昭二と荒神様にダルマと苗木を買いに行った。行くと
き源治の新築家の前に、古い自転車がたてかけてあり、帰るとき
もあった。帰るとき、玄関が少しあいているのをみた。源治の顔
はみないが、来ているなと思った。大野、小野の妻にきくと、五
時頃であった。自転車はみていない。
 
 奥富光平によると五十子米屋は丸通には手ぬぐいはくれない。
源治はきれい好きで白いタオルを首にまいていたが手ぬぐいは使
っていなかった(新築家屋見取図添付)
▲OG新居
 A&Bは要するに早退したと言う事である。当日はメーデーの
日で、各職場とも半ドン、早退が多く見られた。

 D証言については、CからDに変わったと言うよりも、大野氏
はOGを見かけたのは警察がこの事を聞きに来た当初から「3時
頃」と答えたのに対し警察官が「それはおかしい」と言い、その
後また聞きに来たが同じ証言を言ったと言う。しかし身辺調査書
には「5時」と書かれ、且つ大野氏がOGを直接見かけた事は無
い事にされてあった。この大野証言Dは、荒神様の祭礼に行った
と言う出来事に関わる事から、Fの小高証言のように日付を間違
えた証言では無いと思う。
 従って1日午後新居にいたOGを直接見かけたと言う信憑性は
高い。ただ時刻については、3時半とか4時とか、それ以降であ
った可能性もあるだろう。その場合はA&B証言も正しく、Dに
ついては時刻だけが大野氏の錯誤であった事になる。
 しかし1日には、4時半から降雨が激しくなっている。大野氏
が本降りの雨の中を敢て祭礼に出かけたとも思えないから(目的
は達磨と苗木を購入する為)やはり「3時頃」と言う証言は正し
いと見て良い。
 そして大野氏は4時頃帰宅する時には、雨が降って来ていたが
まだ外は明るかったとも証言した。
 そうなると警察に「それはおかしい」と言われても証言を変え
なかった大野氏のD証言が、時刻、状況とも、信憑性が高いので
はないかと思われる。
 
 となるとA&Bをどう見るかになるが、当日は多くの者が早退
していた事を考えると、OGの早退時刻を他の者のそれと取り違
えていたと言う可能性もある。

 OGの勤務先から新居へは、徒歩で15〜20分程度という距
離である。これらの事を纏めて見ると、
 退社=遅くとも2時45分頃
 新居到着=3時前頃、その後D証言に繋がる

 Eについてはどうだろう。事件の発生後、関わりを怖れて家族
が口裏を合わせてアリバイを主張すると言う事はあり得る事であ
る。
 しかしこのOG家族による証言は5〜7時迄の事しか語ってい
ない。勿論これも全くの嘘でOGはその日実家には来もしなかっ
たと言う可能性も無くは無いが、家族がこの証言を警察に語った
時には「脅迫状と自転車が被害者宅に7時40分頃届けられた」
事を知っていた筈で、アリバイ主張をするならば肝心の7時台が
はっきりせず抜けている。また、5時以前の「早退から実家に現
れる迄」の間何をしていたのかも不明。一応家族の言う通りで良
いのではないかと思う。
 
 *推理
 
 OGは本当に事件に関わりがあったのだろうか。

 上記Dに記した大野証言では、OG新居の前を通りかかった処
玄関が完全に開いていてそこにOGがおり「大野さんですか」と
OGが声をかけた。大野氏はこの時声をかけられなかったらそこ
にOGがいる事に気づかなかっただろうとの話である。この時も
しOG
が被害者を誘拐或いは誘拐に加担したとしたなら(または加担し
ているとの認識があったなら)まず玄関などを不用意に開けては
おかないだろうし、まして大野氏にわざわざこちらから声をかけ
なかったであろう(もっとも不意に大野氏に会ってしまい、怪し