5月25日(土)
屍体埋没現場近くの山林から被害者の教科書・ノート類を発見。
6月3日(月)
石川否認が続く。
石田一義・義男・東島明を逮捕。
6月5日(水)
中田家近隣の農業内田幸吉「5月1日夜、中田栄作方はどこだと尋ねてきた男が居た」と届出る。内田の妻は捜査本部の炊出し係。後日公判で矛盾を衝かれ、捏造証人の代表格と評価される。
*現在ではこの証言は全く信用出来ない。
6月18日(火)
第二回家宅捜索(刑事14人により午前5:55〜8;03迄)
特にこの日の捜索は石川宅の5部屋全て、井戸の底など徹底して行なわれた。
*これら2回の家宅捜索で万年筆が発見されない事は有り得ない。特にこ
の捜索の責任者であった小島警部は昭和61年の証言に於いて「第三回
の捜索で万年筆が発見された鴨居は前2回の捜索でも調べた。鴨居右端
にあった穴に詰めてあったぼろ布を引っぱり出して調べた」と述べた。
6月21日(金)
関巡査部長、鞄を発見。
6月23日(日)
関巡査部長、石川一雄の「自供」を引出す。
6月24日(月)
長谷部警視、鞄を捨てた場所の地図を書かせその自白で鞄を発見した事にする。
関巡査部長、石川宅に下着交換の名目で訪問。勝手口から勝手に上がり込んでいた。万年筆を仕掛ける場所の下見に来たものと見られる。
6月26日(水)
第三回家宅捜索。鴨居に仕掛けた万年筆を「発見」。
6月29日(土)
石川一雄、被害者の物と称する腕時計を見せられ腕に嵌めさせられる(時計屋から借りてきたシロモノ)。
7月2日
散歩中の民間人が市内田中地区の茶垣の蔭から腕時計を発見。その場所は上記「自白」に基づき、既に2日間にわたり捜査員が探した所。品触れの時計とは全くの別物(見つかったのはシチズンペット)。
7月9日
石川起訴。
9月4日
一審第一回公判。浦和地裁。
*昭和39年(1964)
3月11日
第十二回公判、死刑判決。
7月14日
被害者の姉登美恵、午前自宅で変死。家族は駆けつけた医師に、農薬を飲んだと語ったが遺体は既にきちんと布団に寝かされており農薬が入っていたと言う瓶は綺麗に洗ってあった。また医師は遺体には既に死後硬直があったと公判で証言している。もしそうであれば上半身だけの硬直であったとしても、医師が駆けつけた時点で登美恵は少なくとも死後3時間は経過していたと見られる。
7月15日
登美恵の死は農薬による自殺と発表。
9月10日
二審第一回公判。東京高裁。石川一雄「善枝ちゃんを殺していない」と発言。
*昭和41年(1966)
10月24日
石田養豚場経営者一義の兄登利造、西武線入曽駅付近の踏切で轢死。入曽駅の日誌はその日の部分が抹消されていた。
*昭和49年(1974)
10月31日
有罪・無期懲役判決(寺尾判決)。
*昭和52年(1977)
8月 9日 最高裁、上告棄却
8月11日 最高裁へ異議申し立て
8月16日 異議申し立て却下。無期が確定
8月30日 東京高裁へ再審請求
10月4日
午前6時半頃、被害者次兄喜代治、自宅で首吊り自殺。自営していた中華料理店の経営不振が原因と言われる。自宅カレンダーの裏に以下の様な遺書めいた奇妙な記述があった。
『私の生きる道はどこにあるのかしら。社会は流れ、私も流さ
れるとしたら、余りにもさみしい夜になるでしょう。あすの
社会もきょうの社会も余り変わりはないけれど、私はただ私
の社会の中にきょうという日を見つめて生きるのです。そし
てまた、私は古いものの中にいつまでもいいところもあるこ
とを願いたい。今を生きるのでしょう。けれどもこれは余り
にも遠すぎた夜かしら。すべて終わり、すべては夢だったの
ね。』
*姉登美恵の遺書の様にも思える。 |