事件概要
| 事件関係者 |
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本件の主要関係者について簡略に表記 |
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石川一雄 *被害者家族 中田善枝 中田栄作 中田ミツ 中田健治 中田喜代子 中田登美恵 中田登代子 中田喜代治 中田武志 YH *変死者(姉・次兄以外) 奥富玄二 田中 昇 石田登利造 *目撃者・佐野屋での関係者、他 増田秀雄 相澤建一 中島いく 奥富孝志 中根敏子 奥富 栄 東島 明 石田一義=石田養豚場経営者。兄弟は4人 (27) *警察・検察関係者 関 源三 長谷部梅吉 細田行義 原 正 |
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狭山事件・時系列表記 |
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事件関係箇所
1=被害者宅 2=内田幸吉宅 3=権現橋・石田養豚場 |
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次兄の自殺迄 |
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*緑字=公式発表以外の新事実及び推理部 *昭和8年(1933) *昭和18年(1943) *昭和22年(1947) 此の前後、奥富玄二が中田家に農業手伝いとして住込みで働いていた。佐木隆三氏によれば昭和22年から約2年間。 *昭和28年(1953) *同診療所の診療科目には脳神経外科もあり(当時からあったかは不明だが)ここで脳腫瘍の治療を当時からしていたと言う事は充分にあり得る。 *また「入院前日まで畑仕事をしていた」との目撃談は一応信用出来るとしても、仕事をしながらも、当時徐々に脳腫瘍の症状が進行していたと言うケ―スも考えられる。こう見ると、療養所入所約十日での母親の死は、言われて来た程奇異な話では無い可能性も可也ある。 *また「自宅近くではない遠方の病院に入院させた事が疑問」等の疑問も言われて来たが、この病院は西武線沿線にあり狭山市からさして遠くない。自宅近くに脳外科系統の病院がなければ、この病院に入院しても別に何ら疑問は無い。 |
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昭和38年 |
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*昭和38年(1963) 5月1日(水) 15:40=第1ガ―ドで中島いくに目撃される。 *被害者は下校後中島いく、相澤建一、奥富孝志の三名に目撃された事はほぼ確実と見て良い。但しその個々の時刻に就いては現在でもはっきりとは確定出来ない。ここでは仮に上記の時系列とした。 17:00=この頃迄長男健治・次女登美恵、自宅納屋前で野菜の整理等の仕事をする。 18:50=日常6時には帰宅する筈の四女善枝が6時半を過ぎても帰宅しない為、長男は小型トラック(日野ブリスカ)で善枝が通学している入間川分校迄迎えに行く。 19:05=長男分校に到着。用務員に尋ねるが既に下校と聞く。帰路入曽駅も見たが善枝は不在。 19:30=帰宅。長男は自宅土間でうどんを食す。 19:40=玄関引戸の隙間に封筒が差込んであるのを発見。末弟武志にそれを取らせ、直ちに内容を確認し即座に警察への通報を決意。その時、納屋に被害者の自転車が止めてあるのを発見。自転車の駐輪位置は普段被害者が停めて置く同位置であった。隣家親戚の中田玉平宅に後事を託してトラックに乗り出発。*此の自転車の駐輪位置に就いて二審第六〇回及び六一回公判調書を基に検討すると、被害者は玄関内の土間と納屋、その両方に置いていたと見られる。→基礎事実の検討3=自転車駐輪位置 19;50=2キロ先の堀兼駐在所に父栄作と共に到着、脅迫状を届出る。この間、脅迫状の発見から通報迄僅か10分。 ![]() 中田栄作方見取図 onClick
脅迫状 封筒と本体 封筒表には20又は28日と読める意味不明な小文字がある(要拡大) 少時様 このかみにツツんでこい 子供の命がほ知かたら4月29日の夜12時に、 金二十万円女の人がもツて前の門のところにいろ。 くりか江す 刑札にはなすな。 気んじょの人にもはなすな 子供死出死まう。 もし金をとりにいツて、ちがう人がいたら 脅迫状概要=子供の命が欲しかったら5月2日夜12時に金20万円を女の人がもって佐野屋の門のところにいろ。警察に話したら子供は死。子供は西武園の池の中に死んでいる 脅迫状は初め宛名に「少時様」と書かれたのを抹消・訂正してあり「中田江さく」、身代金受渡の指定場所は「前の門」が「さのヤの門」、指定日付は「4月29日」が「五月2日」と訂正されていた。封筒は封が切られており被害者の身分証明書が同封されていた。 ![]() 被害者の身分証明書 細田行義元所沢署長の証言に基づけば、この日遅くとも午後5時半迄には、恐らくは有線電話を通じた真犯人からの脅迫が中田家にあった事になる。この時点で既に警察への通報があり、同時に親戚にも依頼して被害者の捜索を開始していたと見られる。 脅迫状指定は2日夜12時(3日午前零時)であったが、この日夜12時にも佐野屋、被害者宅前双方での張込みを行なった。善枝の姉登美恵がこの時点から既に偽札の束を持参して現場に立った。 雨は翌2日午前2時50分迄豪雨が続いていた。 onClick
脅迫状発見状況 5月2日(木) 9:00=県警捜査一課長補佐・大谷木豊次郎警部狭山署に到着佐野屋張込みの準備に入る。 20;00=中勲県警本部刑事部長、将田政二捜査一課次席、長谷部刑事調査官、県警捜査員12、3名と共に狭山署に乗込み、午前中に作成された張込み計画(犯人が徒歩で出現する事をも想定したもの)を変更、車での出現且つ県警捜査員中心の計画に急遽作り変える。 21:00=この頃から約3時間を費やして登美恵の説得。父、登美恵ともに、「善枝はもう殺されている」と泣き、登美恵はなかなか佐野屋立会を承諾しなかったが最後には折れた。 23:37=頃登美恵、車で自宅を出発。長男健治と警察官一名が同乗。登美恵は佐野屋の東約400m付近の交差点手前で下車、単身徒歩で佐野屋へ向かった。 23:55=登美恵、佐野屋前に到着。 ![]() 事件当時の佐野屋 1=登美恵 2=真犯人出現地点 5月3日(金) 真犯人と登美恵の問答:一審公判調書での次姉の証言による再現 犯人:おいおい。 *一審2回|公判調書覚書参照 0:20=頃、登美恵と押し問答を繰返した真犯人逃走。捜査員達が追跡を開始したが時既に遅し。 *5月2日の夕刻にはまた雷雨があったが真犯人出現時には晴天であった。この時月齢は8・3から9・3で、半月がやや膨らんだ程度の月明かり即ち多少先が見通せる程度の光量があった。尚、五月四日付実況見分調書によると「犯行時は曇天であった」と記されているが、気象記録では五月二日22時から翌三日午前10時まで晴天であった。 3:00=大宮署から調達して来た警察犬2頭を使用して犯人の臭跡を追うが不老川付近で立往生。佐野屋を中心とした大包囲網が形成され、捜査員が付近を右往左往。 *恐らく明け方まで此の状態であったろう。従ってこの夜の屍体埋没は真犯人にとって危険極まり無く、従って屍体埋没はこの夜では無かったろう。 8:00=県警機動隊、地元消防団等約160名を動員し山狩り ![]() 佐野屋付近見取り図 ![]() 佐野屋での取り逃がしを報じる新聞 *吉展ちゃん事件に続く犯人取り逃がしに世論の非難沸騰は激烈であった。 5月4日(土)
12:10=屍体発見現場の実況見分開始。終了は19:30。
19:00=被害者宅裏庭物置で屍体解剖開始。
解剖結果
解剖結果の詳細はこちらを参照
遺体埋没状況の詳細はこちらを参照
柏村警察庁長官辞任。 *下写真に就いて=原判決(一審)によれば被告・石川一雄は、1日午後3時50分頃、所謂X字型十字路に於いて被害者と遭遇し「ちょっと来い、用があるんだ」と語気鋭く申し向け、写真4地点の雑木林に連込み、強姦・殺害、その後その屍体を芋穴に一時隠した。この間午後3:50〜6:00迄であるが、下写真3の地点では小名木武氏が午後2:00前〜4:30頃迄除草剤散布の作業をしていた。小名木氏の畑から殺害現場とされた地点迄30mしか離れておらず、殺害時点で小名木氏に全く気付かれずに犯行を行なえる筈が無い。 ![]() 屍体発見現場付近 1=屍体 2=芋穴 3=小名木武氏の畑 4=殺害現場とされた雑木林 5月6日(月) 8:30=頃、奥富玄二、農薬を飲んだ上井戸に飛込み自殺。翌日の結婚式を控えての死であった。 奥富栄「1日に見た2人のうち1人は玄二」 被害者の葬儀 5月7日(火) 警察は奥富玄二の新居を家宅捜索したが、その結果は現在に至るも公開されていない。 5月8日(水) この品触れと腕時計・鞄に就いては下記参照。 5月9日(木) 5月11日(土) 5月13日(月) 5月15日(水) 5月18日(土) 5月19日(日) 5月21日(火) *此のスコップには赤土が付着していた。が、屍体発見現場付近の土壌は黒土である。即ち、仮に此のスコップが養豚場の物であったとしても、屍体埋没に使用された物では無いと言える。 5月22日(水) 石川上申書及び逮捕後書かされた脅迫状の写し *上掲脅迫状の写しでは訂正前日付が「28日」であった。警察が訂正前日付を28日と考えていた事が解る。自白内容も28日に営利誘拐を思ついた事になっている。一審、二審(確定判決)ともこれを採用。 しかし昭和54年5月23日弁護団は赤外線による脅迫状の分析結果を高裁に提出。訂正前日付は「29日」であった。石川自白の信憑性が無い事の証左のひとつである。 5月23日(木) 5月25日(土) 6月3日(月) 6月5日(水) *現在ではこの証言は全く信用出来ない。 6月5日(水)―10日(月)頃 6月11日(火) 6月17日(月) 6月18日(火) *これら2回の家宅捜索で万年筆が発見されない事は有り得ない。特にこの捜索の責任者であった小島警部は昭和61年の証言に於いて「第三回の捜索で万年筆が発見された鴨居は前2回の捜索でも調べた。鴨居右端にあった穴に詰めてあったぼろ布を引っぱり出して調べた」と述べた。 6月21日(金) 6月23日(日) 6月24日(月) 関巡査部長、石川宅に下着交換の名目で訪問。勝手口から勝手に上がり込んでいた。万年筆を仕掛ける場所の下見に来たものと見られる。 6月26日(水) 6月29日(土) 7月2日 7月9日 9月4日 |
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昭和39年以降 |
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*昭和39年(1964)
7月14日 7月15日 9月10日
*昭和41年(1966) 入曽駅の日誌はその日の部分が抹消されていた。但しこれは、その部分が証拠品として警察に提出されただけかも知れない。
*昭和48年(1973)
*昭和49年(1974)
*昭和50年(1975) *昭和52年(1977) 『私の生きる道はどこにあるのかしら。社会は流れ、私も流されるとしたら、余りにもさみしい夜になるでしょう。あすの社会もきょうの社会も余り変わりはないけれど、私はただ私の社会の中にきょうという日を見つめて生きるのです。そしてまた、私は古いものの中にいつまでもいいところもあることを願いたい。今を生きるのでしょう。けれどもこれは余りにも遠すぎた夜かしら。すべて終わり、すべては夢だったのね。』 *姉登美恵の遺書の様にも思える。 |
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再審経過 |
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*昭和55年(1980) *昭和56年(1981) *昭和60年(1985) *昭和61年(1986) *平成6年 (1994) *平成8年 (1996) *平成11年(1999) *平成14年(2002) *平成17年(2005) *平成18年(2006) *平成21年(2009) *平成22年(2010) *平成23年(2011)
7月13日 第七回三者協議(小川正持裁判長、廣瀬公治検事) 9月28日 第八回三者協議。東京高検は弁護団の求めるスコップ・自転車の指紋検査結果、ルミノール反応検査結果、接見指定書等に就き引続き「不見当」と回答。小川裁判長、検察側に証拠開示の検討を求める。 12月14日 第九回三者協議。東京高検は三大物証、スコップ、及び石川氏の供述調書等14点の証拠を開示:「狭山事件再審活動者会議2012年2月25日|近況告知板」参照。 *平成24年(2012) |
なお、事件概要に就いてより詳しくは下記「無限回廊」、石川さん冤罪の根拠に就いてより詳しくは「狭山事件の真実」を御覧になる事を是非お薦め致します。当頁作成にあたりこれらのサイトを参考にさせて頂きました。 |
参考文献・サイト |
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