事件概要

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事件概略
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事件概要
近況告知板

事件関係者

本件の主要関係者について簡略に表記
この項、「異説紛々」と一部除き同一内容
()内=事件当時の年齢、一部実名記載敬称略

石川一雄
=事件以前は石田養豚場に勤務。事件当時兄六造さんが営んでいた鳶職手伝い。5月23日別件逮捕。翌昭和39年3月11日死刑判決。9月10日二審開始。直ちに一審での自白維持を撤回。昭和49年10月31日高裁寺尾裁判長は「有罪、無期懲役」の判決。

*被害者家族

N田善枝
=昭和38年5月1日(水)誕生日当日、下校後失踪。同5月4日狭山市入間川2950付近の農道に死後埋没されている処を発見された。四女。

N田栄作
=明治38年(1905)8月14日生(58)被害者父。事件当時堀兼地区の区長であった。

N田ミツ
=被害者母。昭和8年5月12日当時の堀兼村上赤坂の被害者宅へ下赤坂から嫁に入る。翌朝庭に墓石や卒塔婆がたくさん放り込まれてあった(但しこれらは荻原文書に基づく情報)。昭和28年12月30日午前10時30分東京都北多摩郡小川町(当時)国立療養所精神科に於て死亡。診断書には死因は「脳腫瘍」。入院から約10日で死亡しているが近隣住民の目撃によると入院前日まで畑仕事をしていた。脳腫瘍がこのような短期間に発病して死に至る事は通常は考えられないと言われて来たが、これには異論もある。詳細考察

N田健治
=被害者長兄。脅迫状「発見者」定時制高校を優秀な成績で卒業後一時日刊紙東京タイムスに勤務後池袋の会計事務所に勤務のかたわら目白の経理学校に通学。その後顔面神経痛と脊髄の病気で5年間東大病院に通院。家の農業に従事。公判時の証言が不審。(26)

N田喜代子
=長女。事件数年前に家を出た。結婚し子供2人。(29)

N田登美恵
=次女。佐野屋へ偽札を持参犯人と対峙。婚約者と入籍後も実家で生活していた。昭和39年7月14日午前自宅で変死。農薬による自殺と発表された。(23、享年24歳)

N田登代子
=三女。夭折、昭和18年5月18日享年3歳。

N田喜代治
=次男。昭和52年10月4日自宅で変死。享年33歳。営んでいた中華料理店の経営不振による自殺と言われている(19)

N田武志
=三男。戸に差し挟んであった脅迫状を長兄の指示で取ったとされる。しかし脅迫状に末弟の指紋は無かった。後年他家へ養子、駒沢大学卒。(11)

YH
=姉(次女)の夫君。長兄の小中学校同級生。当時所沢の米軍兵站廠勤務、農家長男。事件の年の秋見合いにより婚約し12月に入籍、翌年秋に挙式予定であった。長兄と同じ日に出廷したが長兄同様、証言が不審。(26)

*変死者(姉・次兄以外)

奥富玄二
=元被害者宅作男。昭和38年5月6日朝、実家に於て農薬を飲んだ上井戸に飛び込み自殺。6日は結婚式の前日且つ被害者善枝さんの葬儀の日であった。事件当日は被害者が目撃された第二ガード近くの勤務先を3時40分〜4時頃に退出。5時〜7時頃迄実家で飲酒をしていたと言う。4・5日は無断欠勤。享年31。建設中の新居は自殺後家宅捜索を受けている。

田中 昇
=5月11日午後8時頃自宅奥座敷で変死。ナイフを心臓に突き刺していた。「事件当日夕刻狭山精密近くの山林で3人の男と車を見た」との情報提供者だが、警察に厳しい取り調べを受け、死亡前日憔悴して帰宅後は寝込んでいたと言う。享年31。

石田登利造
=昭和41年10月24日入曽駅付近の線路上で轢死。石田養豚場経営者の兄。泥酔していたとも言われる。入曽駅の日誌は轢死当日の分が破棄されていた。

*目撃者・佐野屋での関係者、他

増田秀雄
=堀兼中PTA会長。姉と共に佐野屋へ行った。翌年3月15日脳出血で死亡。

相澤建一
=被害者が堀兼中3年生の時の担任。事件当日午後3時頃に被害者を第二ガードで目撃した。佐野屋へ同行。

中島いく
=被害者を第一ガードで目撃3時20分頃。

奥富孝志
=被害者の堀兼中時代の一年後輩。被害者を関口自転車店付近で目撃。2時半〜40分(実際には4時前後と思われる。目撃証言について→参照基礎事実の検討→最終目撃者

中根敏子
=被害者が3時23分頃、自転車を転がして下校する姿を目撃。中根さん自身がいつも3:24の電車に乗るので時計を見た処その時刻であった。その日友達から借りた「女学生の友」を善枝に貸した。この日自分は3:40に下校して3:54の電車に乗った。

奥富 栄
=植木屋兼ブローカー、石田養豚場の地主北田収方の物置に夫婦で間借りをしていた。事件発覚後の5月6日「1日狭山市沢付近の山林に怪しい2人連れの男を見た。一人は奥富玄二」とマスコミ等に放言。続いて9日には刑事に「1日に見たと言った2人組は石川と東島に似ていた」と供述。
>(石田)登利造は北田方に出入りしていた(犬三匹を北田は買っている)こんな関係で奥富も石田豚屋に出入りしており、石川被告が事件の半年前に石田豚屋をやめて遊んでいた時、同じく失業していた東島明の二人を連れて所沢の農家を訪ね、作男に就職あっせんを試みているが、これはまとまらなかった(就職あっせんの件は二審公判での石川供述による)。自殺した奥富玄二とも近所であり遠縁であった
(亀井トム「狭山事件 権力犯罪の構造」より抜粋)

東島 明
=被差別部落青年の一人、石田養豚場で労働。6月3日逮捕。以後57日間の拘留後、事件に無関係として釈放。その後行方不明となったが、現在は他県に居住。

石田一義=石田養豚場経営者。

*警察関係者

関 源三
=巡査部長、狭山署交通課主任。事件3年前に所沢署から転任、野球試合を通じ当時の被差別部落の青少年達と懇意であった。石川一雄氏とも顔見知りであった。被害者の自転車に付いていたとされるゴム紐を発見、石川氏の「自白」の引出し、その自白に基づいて被害者の鞄を発掘、石川宅に勝手口から勝手に入りこみその2日後に「発見」された被害者の「万年筆」を仕掛ける為の下見をする(関自身が鴨居に万年筆を置いたとも言われる)等々、事件捜査に大活躍を演じた。

長谷部梅吉
=警視、埼玉県警刑事調査官。5月2日午後8時頃中勲県警本部刑事部長、将田政二捜査一課次席らと共に狭山署に突如乗込み、佐野屋に於ける捜査員配置の仕方を強引に変更。石川氏逮捕後の捜査では「自供すれば十年で出してやる」との有名な台詞を以て、次々と嘘の自供を引出した張本人。様々な証拠捏造にも積極的な関与をしていたと見られる。

細田行義
=所沢署署長。「「5月1日午後6時半頃、上田明県警本部長が所沢署を訪れ狭山市で誘拐事件発生の為、西武園の検索を指示した」と証言。もしこれが真実であれば、事件発覚時刻とその状況は、公式発表とは全く異なる事となる。当然、石川氏冤罪の証左ともなる。

事件概要・時系列表記

▲事件関係箇所
1=被害者宅 2=内田幸吉宅 3=権現橋・石田養豚場
4=佐野屋 5=薬研坂 6=屍体発見地点

次兄の自殺迄

 *緑字=公式発表以外の新事実及び推理部

 *昭和8年(1933)
5月12日=被害者母ミツ、N田家に嫁に入る。その翌朝庭に墓石卒塔婆が放り込まれていた。

 *昭和18年(1943)
5月18日=三女登代子死亡。享年3歳。

 *昭和22年(1947)
5月1日=四女被害者生誕。

(此の前後、奥富玄二がN田家に農業手伝いとして住込みで働いていたと言う。正確な時期及び期間は不明)

 *昭和28年(1953)
12月30日=被害者母ミツ
午前10時30分東京都北多摩郡小川町(当時)
国立武蔵療養所(現・国立精神・神経センター武蔵病院)精神科に於て死亡。診断書には死因は「脳腫瘍」。
死因が精神科とは無関係。入院から約10日で死亡しているが近隣住民の目撃によると入院前日まで畑仕事をしていた。脳腫瘍がこのような短期間に発病して死に至る事は通常は考えられない。(と言われて来たが下記参照)

*もっとも、同診療所の診療科目には脳神経外科もあり(当時からあったかは不明だが)ここで脳腫瘍の治療を当時からしていたと言う事は充分にあり得る。

*また「入院前日まで畑仕事をしていた」との目撃談は一応信用出来るとしても、仕事をしながらも、当時徐々に脳腫瘍の症状が進行していたと言うケースも考えられる。こう見ると、療養所入所約十日での母親の死は、案外言われて来た程奇異な話では無い可能性も可也ある。

*また「自宅近くではない遠方の病院に入院させた事が疑問」等の疑問も言われて来たが、この病院は西武線沿線にあり狭山市からさして遠くない。自宅近くに脳外科系統の病院がなければ、この病院に入院しても別に疑問は無い。

▲N田栄作方見取図

 *昭和38年(1963)
 4月7日
午前1時36分過ぎ、吉展ちゃん誘拐事件で犯人を取り逃がし、身代金50万円奪取さる。

 5月1日(水)
善枝の誕生日で16歳を迎える。朝食で赤飯を食べ、川越高校入間川分校に登校。
11:50=調理実習でこしらえたカレーライスを試食。
14:35=授業終了。
15:23=下校(中根敏子証言による)
      下校後、郵便局・毛糸店に立寄った。

15:40=第1ガードで中島いくに目撃される。
15:50=第2ガードで相澤建一に目撃される。
16:00=関口自転車店付近で奥富孝志とすれ違う。

      この頃より雨が強くなる。
16:30=入間川駅荷小屋で雨宿りをしていた石川氏、雨で試合中止となって東中から帰宅する中学生の集団を目撃。
17:00=石川氏続けて石田養豚場のトラックを目撃。

注=上記の時系列は伊吹隼人氏の調査により、現在では別の可能性が高まった。下記頁を参照。
基礎事実の検討1最終目撃者目撃証言の再検討

17:00=この頃迄長男健治・次女登美恵、自宅納屋前で野菜の整理等の仕事をする。

18:50=日常6時には帰宅する筈の四女善枝が6時半を過ぎても帰宅しない為、長男は小型トラック(日野ブリスカ)で善枝が通学している入間川分校迄迎えに行く。

19:05=長男分校に到着。用務員に尋ねるが既に下校と聞く。帰路入曽駅も見たが善枝は不在。

19:30=帰宅。長男は自宅土間でうどんを食す。

19:40=玄関引戸の隙間に脅迫状が差込んであるのを発見。末弟武志にそれを取らせ、直ちに内容を確認し即座に警察への通報を決意。その時、納屋に被害者の自転車が止めてあるのを発見。自転車の駐輪位置は普段被害者が停めて置く同位置であった。隣家親戚のN田玉平宅に後事を託してトラックに乗り出発。

19;50=2キロ先の堀兼駐在所に父栄作と共に到着、脅迫状を届出る。この間、脅迫状の発見から通報迄僅か10分。

▲脅迫状封筒
▲なお、封筒表には20又は28日と読める意味不明な小文字がある。
▲脅迫状本体

少時様  このかみにツツんでこい  

子供の命がほ知かたら4月29日の夜12時に、
          五月2日

金二十万円女の人がもツての門のところにいろ。
            さのヤ
友だちが車出いくからその人にわたせ。
時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。―
刑札には名知たら小供は死。
もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら
子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。
もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら
子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける、

くりか江す 刑札にはなすな。

気んじょの人にもはなすな

子供死出死まう。

もし金をとりにいツて、ちがう人がいたら
そのままかえてきて、こどもわころしてヤる。

脅迫状概要=子供の命が欲しかったら5月2日夜12時に金20万円を女の人がもって佐野屋の門のところにいろ。警察に話したら子供は死。子供は西武園の池の中に死んでいる

脅迫状は初め宛名に「少時様」と書かれたのを抹消・訂正してあり「N田江さく」、身代金受渡の指定場所は「前の門」が「さのヤの門」、指定日付は「4月29日」が「五月2日」と訂正されていた。

細田行義元所沢署長の証言に基づけば、この日遅くとも午後5時半迄には、恐らくは有線電話を通じた脅迫がN田家にあった事になる。この時点で既に警察への通報があり、同時に親戚にも依頼して被害者の捜索を開始していたと見られる。 

脅迫状指定は2日夜12時(3日午前零時)であったが、この日夜12時にも佐野屋、被害者宅前双方での張込みを行なった。善枝の姉登美恵がこの時点から既に偽札の束を持参して現場に立った。

雨は翌2日午前2時50分迄豪雨が続いていた。

▲脅迫状発見状況

 5月2日(木)
6:00=PTA会長増田秀雄、午前6時前に竹内狭山署長から電話で呼出される。狭山署署長室に於いて
 1、捜査の前線基地の場所の物色
 2、佐野屋で飼っている犬のスピッツが良く吠えるので、
   張込み時には他所へ隔離してもらう様佐野屋主人に
   その旨話して欲しい
 3、重大事件なので張込み要員の輸送には警察の車を使
   いたくないから民間の車を手配して欲しい
 4、被害者の姉登美恵にもう一度張込み現場に出てくれ
   る様、説得して欲しい。
旨、依頼を受けた。増田はそれに基づき、前線基地としてはN田家近隣で地区の安全協会副会長をしていた松本留造宅を手配し、他も快諾。

9:00=県警捜査一課長補佐・大谷木豊次郎警部狭山署に到着佐野屋張込みの準備に入る。
18:00=増田秀雄、佐野良二(佐野屋主人)に軽自動車の借用を申込む。上記3の依頼項目。

20;00=中勲県警本部刑事部長、将田政二捜査一課次席、長谷部刑事調査官、県警捜査員12、3名と共に狭山署に乗込み、午前中に作成された張込み計画(犯人が徒歩で出現する事をも想定したもの)を変更、車での出現且つ県警捜査員中心の計画に急遽作り変える。

21:00=この頃から約3時間を費やして登美恵の説得。父、登美恵ともに、「善枝はもう殺されている」と泣き、登美恵はなかなか佐野屋立会を承諾しなかったが最後には折れた。

23:37=頃登美恵、車で自宅を出発。長男健治と警察官一名が同乗。登美恵は佐野屋の東約400m付近の交差点手前で下車、単身徒歩で佐野屋へ向かった。

23:55=登美恵、佐野屋前に到着。

▲事件当時の佐野屋 1=登美恵 2=犯人出現地点

 5月3日(金)
0:10=佐野屋横の畑、茶垣の蔭に犯人出現。

犯人と登美恵のやり取り

犯人「おいおい」
犯人「おいおい」
犯人「来てんのか」
次姉「来てますよ」
犯人「警察へ話したんべ」
次姉「……」
犯人「そこに二人いるじゃねえか」
次姉「一人で来ているから、ここまでいらっしゃいよ」
(ここで、次姉のすぐそばにいた刑事が手で合図したため、次姉は4メートルくらい声がした方に進んだ)
次姉「ここまで来ているんだから、あんたのほうで出てきなさいよ」
犯人「本当に金持ってきているのか」
次姉「ええ、持ってますよ」
(風呂敷をときながら、さらに道路標識ちょっと先まで進み出た)
次姉「ここまで来てるんだから出てきなさいよ、あなた男なんでしょう、男らしく出てきたらいいでしょう」
(次姉、元の位置まで戻る)
犯人「取れないから帰るぞ、帰るぞ」
次姉(また進みながら)「私は時間厳守で来てるんですから、ここまで来なさいよ」
(そう言った後、「白っぽく人影らしいものが動いたのを見た」と次姉は証言している)

☆出典=事件関係ブログ狭山事件入門身代金受渡し

0:20=頃、登美恵と押し問答を繰返した犯人が逃走。捜査員達が追跡を開始したが時既に遅し。

*5月2日の夕刻にはまた雷雨があったが犯人出現時には空は晴れていた。この時月齢は8・3から9・3で、半月がやや膨らんだ程度の月明かりがあった。即ち多少先が見通せる程度の光量はあり、全くの暗闇と言うわけではなかった。

3:00=大宮署から調達して来た警察犬2頭を使用して犯人の臭跡を追うが不老川付近で立往生。佐野屋を中心とした大包囲網が形成され、捜査員が付近を右往左往。

*恐らく明け方まで此の状態であったろう。従ってこの夜の屍体埋没は犯人にとって危険極まり無く、従って屍体埋没はこの夜では無かったろう。

8:00=県警機動隊、地元消防団等約160名を動員し山狩り14:25=山狩りに参加していた狭山署交通係・関源三巡査部長自転車用ゴム紐を発見。

▲佐野屋付近見取り図
▲佐野屋での取り逃がしを報じる新聞

 *吉展ちゃん事件に続く犯人取り逃がしに世論の非難沸騰は激烈であった。

 5月4日(土)
10:30=屍体発見。付近の芋穴からビニール風呂敷と棍棒。

12:10=屍体発見現場の実況見分開始。終了は19:30。

19:00=被害者宅裏庭物置で屍体解剖開始。
21:00=屍体解剖終了。
 
柏村警察庁長官辞任。
奥富栄、市内沢付近の山林で2人組の男を見たと放言。
石田養豚場経営者石田一義、スコップ紛失の件を調べられる。

*下写真に就いて=原判決(一審)によれば被告・石川一雄は、1日午後3時50分頃、所謂X字型十字路に於いて被害者と遭遇し「ちょっと来い、用があるんだ」と語気鋭く申し向け、上写真4の雑木林に連込み、強姦・殺害、その後その屍体を芋穴に一時隠した。この間午後3:50〜6:00迄であるが、下写真3の地点では小名木武氏が午後2:00前〜4:30頃迄除草剤散布の作業をしていた。小名木氏の畑から殺害現場とされた地点迄30mしか離れておらず、殺害時点で小名木氏に全く気付かれずに犯行を行なえる筈が無い。

▲屍体発見現場付近
1=屍体 2=芋穴 3=小名木武氏の畑 4=殺害現場とされた雑木林

 5月6日(月)
被害者の葬儀。
石田一義、スコップ紛失の上申書を取られる。

8:30=頃、奥富玄二、農薬を飲んだ上井戸に飛込み自殺。翌日の結婚式を控えての死であった。

奥富栄「1日に見た2人のうち1人は玄二」

被害者の葬儀

 5月7日(火)
疑惑濃厚な死であったにも関わらず、奥富玄二は行政解剖をされる事も無く、警察は「奥富シロ」と発表。

警察は奥富玄二の新居を家宅捜索したが、その結果は現在に至るも公開されていない。

 5月8日(水)
被害者の鞄と腕時計の品触れが、主に古物商・質屋に対し5万枚が配布される。出処不明な鞄(新品)の写真と「シチズンコニー」の写真を掲載。特に腕時計は7月2日に至って発見された物と種類も、従って側番号も異なっていた。その上、これらの品を発見した場合の連絡先電話番号は全く使われていない番号と言う始末。

 5月9日(木)
奥富栄、刑事に「1日に見た2人組は石川と東島に似ていた」と供述。

 5月11日(土)
夕刻屍体埋没現場と奥富玄二新居の中間地点からスコップ発見。20:00=市内柏原の農業田中昇(31)自宅奥座敷でナイフを心臓に突刺して変死。家族は家に居た。数日前「1日夕刻薬研坂の山林で3人の男と車を見た」と捜査本部に通報したが、逆に激しい取調べを受け、前日憔悴して帰宅、寝込んでいたと言う。

 5月13日(月)
石川と東島に対する別件捜査開始。

 5月15日(水)
石田養豚場3兄弟を近日逮捕と発表。

 5月19日(日)
石田兄弟にアリバイありと発表。

 5月21日(火)
石田一義、スコップを養豚場の物と認める。

*此のスコップには赤土が付着していた。が、屍体発見現場付近の土壌は黒土である。即ち、仮に此のスコップが養豚場の物であったとしても、屍体埋没に使用された物では無いと言える。
 石川一雄、自宅でアリバイ上申書を書かされる。

 5月22日(水)
脅迫状と石川上申書の筆跡が同一との鑑定を受け、浦和地裁川越支部に逮捕状を請求。

▲石川上申書及び逮捕後書かされた脅迫状の写し

*上掲脅迫状の写しでは訂正前日付が「28日」であった。警察が訂正前日付を28日と考えていた事が解る。自白内容も28日に営利誘拐を思ついた事になっている。一審、二審(確定判決)ともこれを採用。

しかし昭和54年5月23日弁護団はX線による脅迫状の分析結果を高
裁に提出。訂正前日付は「29日」であった。石川自白の信憑性が無い事の証左の一つである。

 5月23日(木)
早暁、石川一雄別件逮捕。第一回家宅捜索(刑事12人により、午前4:45〜7:02迄)被害者長兄健治、石川逮捕を受けて産経新聞夕刊に手記を発表。

▲長兄の手記

 5月25日(土)
屍体埋没現場近くの山林から被害者の教科書・ノート類を発見。

 6月3日(月)
石川否認が続く。
石田一義・義男・東島明を逮捕(後に釈放)。

 6月5日(水)
N田家近隣の農業内田幸吉「5月1日夜、N田栄作方はどこだと尋ねてきた男が居た」と届出る。内田の妻は捜査本部の炊出し係。後日公判で矛盾を衝かれ、捏造証人の代表格と評価される。

*現在ではこの証言は全く信用出来ない。

 6月18日(火)
第二回家宅捜索(刑事14人により午前5:55〜8;03迄)特にこの日の捜索は石川宅の5部屋全て、井戸の底など徹底して行なわれた。

*これら2回の家宅捜索で万年筆が発見されない事は有り得ない。特にこの捜索の責任者であった小島警部は昭和61年の証言に於いて「第三回の捜索で万年筆が発見された鴨居は前2回の捜索でも調べた。鴨居右端にあった穴に詰めてあったぼろ布を引っぱり出して調べた」と述べた。

 6月21日(金)
関巡査部長、鞄を発見。

 6月23日(日)
関巡査部長、石川一雄の「自供」を引出す。

 6月24日(月)
長谷部警視、鞄を捨てた場所の地図を書かせその自白で鞄を発見した事にする。

関巡査部長、石川宅に下着交換の名目で訪問。勝手口から勝手に上がり込んでいた。万年筆を仕掛ける場所の下見に来たものと見られる。

 6月26日(水)
第三回家宅捜索。鴨居に仕掛けた万年筆を「発見」。

 6月29日(土)
石川一雄、被害者の物と称する腕時計を見せられ腕に嵌めさせられる(時計屋から借りてきたシロモノ)。

 7月2日
散歩中の民間人が市内田中地区の茶垣の蔭から腕時計を発見。その場所は上記「自白」に基づき、既に2日間にわたり捜査員が探した所。品触れの時計とは全くの別物(見つかったのはシチズンペット)。

 7月9日
石川起訴。

 9月4日
一審第一回公判。浦和地裁。

 *昭和39年(1964)
 3月11日
第十二回公判、死刑判決。

 7月14日
被害者の姉登美恵、午前自宅で変死。家族は駆けつけた医師に、農薬を飲んだと語ったが遺体は既にきちんと布団に寝かされており農薬が入っていたと言う瓶は綺麗に洗ってあった。また医師は遺体には既に死後硬直があったと公判で証言している。もしそうであれば上半身だけの硬直であったとしても、医師が駆けつけた時点で登美恵は少なくとも死後3時間は経過していたと見られる。

 7月15日
登美恵の死は農薬による自殺と発表。

 9月10日
二審第一回公判。東京高裁。石川一雄「僕は善枝ちゃんを殺していない」と発言。

 *昭和41年(1966)
 10月24日
石田養豚場経営者一義の兄登利造、西武線入曽駅付近の踏切で轢死体で発見(但し生体轢断か死後轢断かは不明)。

入曽駅の日誌はその日の部分が抹消されていた。但しこれは、その部分が証拠品として警察に提出されただけかも知れない。

 *昭和49年(1974)
 10月31日
有罪・無期懲役判決(寺尾判決)。

 *昭和52年(1977)
 8月 9日  最高裁、上告棄却
 8月11日  最高裁へ異議申し立て
 8月16日  異議申し立て却下。無期が確定
 8月30日  東京高裁へ再審請求
 10月4日
午前6時半頃、被害者次兄喜代治、自宅で首吊り自殺。自営していた中華料理店の経営不振が原因と言われる。自宅カレンダーの裏に以下の様な遺書めいた奇妙な記述があった。

『私の生きる道はどこにあるのかしら。社会は流れ、私も流されるとしたら、余りにもさみしい夜になるでしょう。あすの社会もきょうの社会も余り変わりはないけれど、私はただ私の社会の中にきょうという日を見つめて生きるのです。そしてまた、私は古いものの中にいつまでもいいところもあることを願いたい。今を生きるのでしょう。けれどもこれは余りにも遠すぎた夜かしら。すべて終わり、すべては夢だったのね。』

*姉登美恵の遺書の様にも思える。

再審経過

 *昭和55年(1980)
 2月 5日  再審請求棄却
 2月12日  東京高裁へ異議申し立て

 *昭和56年(1981)
 3月25日  異議申し立て棄却
 3月30日  最高裁判所へ特別抗告

 *昭和60年(1985)
 5月27日  特別抗告棄却
 11月23日 石川氏の父富造さん死去(87歳)

 *昭和61年(1986)
 4月 5日  姉のよねさん死去(62歳)
 8月21日  東京高等裁判所第4刑事部へ第2次再審請求
 
 *昭和62年(1987)
 3月28日  母のリイさん死去(81歳)

 *平成6年 (1994)
 12月21日 逮捕後31年7ヶ月を経て石川氏仮釈放

 *平成8年 (1996)
 12月21日 早智子さんと結婚

 *平成11年(1999)
 7月12日  東京高裁第5刑事部に異議申し立て

 *平成14年(2002)
 1月23日  東京高裁(高橋裁判長)、異議申し立て棄却
 1月29日  最高裁判所に対して特別抗告

 *平成17年(2005)
 3月16日  最高裁第1小法廷(島田裁判長) 特別抗告棄却

 *平成18年(2006)
 5月23日  第3次再審請求 (東京高裁第4刑事部)

なお、事件概要に就いてより詳しくは下記「無限回廊」、当時の貴重な新聞・雑誌記事に就いては「狭山事件関連資料」、石川さん冤罪の根拠に就いてより詳しくは「狭山事件の真実」を御覧になる事を是非お薦め致します。当頁作成にあたりこれらのサイトを参考にさせて頂きました。

参考文献・サイト
亀井トム「狭山事件」        
狭山事件 第二集
     「狭山事件 権力犯人と真犯人
 「狭山事件への告発状
    「狭山事件 権力犯罪の構造
   「狭山事件 無罪の新事実
野間 宏「狭山裁判・上」      
狭山裁判・下」  
   甲斐仁志「狭山事件を推理する―Vの悲劇」 
 部落解放同盟「無実の獄25年・狭山事件写真集」

WEBサイト「無限回廊 狭山事件」     
 「狭山事件関連資料」 
狭山事件の真実」 

基礎事実の検討1
基礎事実の検討2
法医考察1
法医考察2
法医考察3
法医問題の決着
現地調査写真
現地調査写真2
2004年実況見分
実況見分考察
2005年現地見分
2006年現地見分
2007年現地見分
2008年現地見分
2009年現地見分
現地変遷写真集
長兄の手記
電話の証言
伊吹隼人取材報告
46年目の現場と証言
狭山事件関連書籍
アクセス推移情報
狂言誘拐説
異説 紛々
怨恨説
屍体埋没
黒幕説補稿
黒幕説
長兄説

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