石川一雄
=事件以前は石田養豚場に勤務。事件当時兄六造さんが営んでいた鳶職手伝い。5月23日別件逮捕。翌昭和39年3月11日死刑判決。9月10日二審開始。直ちに一審での自白維持を撤回。昭和49年10月31日高裁寺尾裁判長は「有罪、無期懲役」の判決。
*被害者家族
N田善枝
=昭和38年5月1日(水)誕生日当日、下校後失踪。同5月4日狭山市入間川2950付近の農道に死後埋没されている処を発見された。四女。
N田栄作
=明治38年(1905)8月14日生(58)被害者父。事件当時堀兼地区の区長であった。
N田ミツ
=被害者母。昭和8年5月12日当時の堀兼村上赤坂の被害者宅へ下赤坂から嫁に入る。翌朝庭に墓石や卒塔婆がたくさん放り込まれてあった(但しこれらは荻原文書に基づく情報)。昭和28年12月30日午前10時30分東京都北多摩郡小川町(当時)国立療養所精神科に於て死亡。診断書には死因は「脳腫瘍」。入院から約10日で死亡しているが近隣住民の目撃によると入院前日まで畑仕事をしていた。脳腫瘍がこのような短期間に発病して死に至る事は通常は考えられないと言われて来たが、これには異論もある。詳細考察↓
N田健治
=被害者長兄。脅迫状「発見者」定時制高校を優秀な成績で卒業後一時日刊紙東京タイムスに勤務後池袋の会計事務所に勤務のかたわら目白の経理学校に通学。その後顔面神経痛と脊髄の病気で5年間東大病院に通院。家の農業に従事。公判時の証言が不審。(26)
N田喜代子
=長女。事件数年前に家を出た。結婚し子供2人。(29)
N田登美恵
=次女。佐野屋へ偽札を持参犯人と対峙。婚約者と入籍後も実家で生活していた。昭和39年7月14日午前自宅で変死。農薬による自殺と発表された。(23、享年24歳)
N田登代子
=三女。夭折、昭和18年5月18日享年3歳。
N田喜代治
=次男。昭和52年10月4日自宅で変死。享年33歳。営んでいた中華料理店の経営不振による自殺と言われている(19)
N田武志
=三男。戸に差し挟んであった脅迫状を長兄の指示で取ったとされる。しかし脅迫状に末弟の指紋は無かった。後年他家へ養子、駒沢大学卒。(11)
YH
=姉(次女)の夫君。長兄の小中学校同級生。当時所沢の米軍兵站廠勤務、農家長男。事件の年の秋見合いにより婚約し12月に入籍、翌年秋に挙式予定であった。長兄と同じ日に出廷したが長兄同様、証言が不審。(26)
*変死者(姉・次兄以外)
奥富玄二
=元被害者宅作男。昭和38年5月6日朝、実家に於て農薬を飲んだ上井戸に飛び込み自殺。6日は結婚式の前日且つ被害者善枝さんの葬儀の日であった。事件当日は被害者が目撃された第二ガード近くの勤務先を3時40分〜4時頃に退出。5時〜7時頃迄実家で飲酒をしていたと言う。4・5日は無断欠勤。享年31。建設中の新居は自殺後家宅捜索を受けている。
田中 昇
=5月11日午後8時頃自宅奥座敷で変死。ナイフを心臓に突き刺していた。「事件当日夕刻狭山精密近くの山林で3人の男と車を見た」との情報提供者だが、警察に厳しい取り調べを受け、死亡前日憔悴して帰宅後は寝込んでいたと言う。享年31。
石田登利造
=昭和41年10月24日入曽駅付近の線路上で轢死。石田養豚場経営者の兄。泥酔していたとも言われる。入曽駅の日誌は轢死当日の分が破棄されていた。
*目撃者・佐野屋での関係者、他
増田秀雄
=堀兼中PTA会長。姉と共に佐野屋へ行った。翌年3月15日脳出血で死亡。
相澤建一
=被害者が堀兼中3年生の時の担任。事件当日午後3時頃に被害者を第二ガードで目撃した。佐野屋へ同行。
中島いく
=被害者を第一ガードで目撃3時20分頃。
奥富孝志
=被害者の堀兼中時代の一年後輩。被害者を関口自転車店付近で目撃。2時半〜40分(実際には4時前後と思われる。目撃証言について→参照基礎事実の検討→最終目撃者)
中根敏子
=被害者が3時23分頃、自転車を転がして下校する姿を目撃。中根さん自身がいつも3:24の電車に乗るので時計を見た処その時刻であった。その日友達から借りた「女学生の友」を善枝に貸した。この日自分は3:40に下校して3:54の電車に乗った。
奥富 栄
=植木屋兼ブローカー、石田養豚場の地主北田収方の物置に夫婦で間借りをしていた。事件発覚後の5月6日「1日狭山市沢付近の山林に怪しい2人連れの男を見た。一人は奥富玄二」とマスコミ等に放言。続いて9日には刑事に「1日に見たと言った2人組は石川と東島に似ていた」と供述。
>(石田)登利造は北田方に出入りしていた(犬三匹を北田は買っている)こんな関係で奥富も石田豚屋に出入りしており、石川被告が事件の半年前に石田豚屋をやめて遊んでいた時、同じく失業していた東島明の二人を連れて所沢の農家を訪ね、作男に就職あっせんを試みているが、これはまとまらなかった(就職あっせんの件は二審公判での石川供述による)。自殺した奥富玄二とも近所であり遠縁であった
(亀井トム「狭山事件 権力犯罪の構造」より抜粋)
東島 明
=被差別部落青年の一人、石田養豚場で労働。6月3日逮捕。以後57日間の拘留後、事件に無関係として釈放。その後行方不明となったが、現在は他県に居住。
石田一義=石田養豚場経営者。
*警察関係者
関 源三
=巡査部長、狭山署交通課主任。事件3年前に所沢署から転任、野球試合を通じ当時の被差別部落の青少年達と懇意であった。石川一雄氏とも顔見知りであった。被害者の自転車に付いていたとされるゴム紐を発見、石川氏の「自白」の引出し、その自白に基づいて被害者の鞄を発掘、石川宅に勝手口から勝手に入りこみその2日後に「発見」された被害者の「万年筆」を仕掛ける為の下見をする(関自身が鴨居に万年筆を置いたとも言われる)等々、事件捜査に大活躍を演じた。
長谷部梅吉
=警視、埼玉県警刑事調査官。5月2日午後8時頃中勲県警本部刑事部長、将田政二捜査一課次席らと共に狭山署に突如乗込み、佐野屋に於ける捜査員配置の仕方を強引に変更。石川氏逮捕後の捜査では「自供すれば十年で出してやる」との有名な台詞を以て、次々と嘘の自供を引出した張本人。様々な証拠捏造にも積極的な関与をしていたと見られる。
細田行義
=所沢署署長。「「5月1日午後6時半頃、上田明県警本部長が所沢署を訪れ狭山市で誘拐事件発生の為、西武園の検索を指示した」と証言。もしこれが真実であれば、事件発覚時刻とその状況は、公式発表とは全く異なる事となる。当然、石川氏冤罪の証左ともなる。 |